「脱社畜」という呪いの言葉が、世界を不幸にする
この記事は、うまくまとめきれず下書き状態で放置していた記事なのだけれど、話題のnoteに感化されてしまったので、心の勢いにまかせて書ききろうと思う。
「脱社畜」なんていう言葉で商売する人たちもいる。自分が会社で働きたくなかったり、そのやり方を人に教えてお金儲けをするのは個人の勝手だけれど、会社に所属して働いている人たちを下に見るような「社畜」という表現が大嫌いだ。組織の中で懸命に生きていることの何が悪い。自由ぶって、自分の特別さを見せびらかして、そしてちゃんと働いている人たちをバカにするなんて最低だ。私はあんまり他者を否定しないように意識して生きているのだけれど、会社員のひとたちをバカにする風潮だけはずっとムカついていたのでここに書いておこうと思う。いわゆる「社畜」であることの何が悪い。何も悪くない。むしろ超偉い。そんなのは超がつくほど当たり前なことだと思う。
ぼくも、この「脱社畜」というフレーズを平然と使う人間は根絶すべきだと思っている。
この言葉は、送り手と受け手の両方を不幸にする呪いの言葉だ。今からそれを論証していく。
あらかじめ断っておくと、ぼくは「いち会社員の枠組みを抜け出して資産形成をすべき」という主張に対して全面的に賛成している。この記事で終始伝えたいのは、その伝え方が最低最悪だ、ということだ。伝え方が9割であるとするなら、彼らの主張はよくて10点である。
「社畜」がもつニュアンス
「社畜」というネットスラングが生まれて久しく、今となっては原点を辿ることも難しい。しかし、この言葉が「家畜」のもじりとして生まれたことは想像しやすい。
家畜のように、会社に飼われる存在としての会社員。間違いなく、他人(または自分)を卑下するために作られた言葉だ。
コピーライター谷山雅計さんの『広告コピーってこう書くんだ!読本』には以下のような記述がある。
これは以前、糸井重里さんにお聞きした話ですが、たとえば、「この香水はウンコのような香りはしない、すばらしい香りです」という文章があったとすれば、受け手はどう感じるでしょうか。
この文章は、論理的には「この香水はすばらしい香りです」という意味を述べているわけだけれども、パッと見たり、聞いたりしたら、まず「ウンコのような」という部分が目や耳に入って、くさそうなイメージしか残らないでしょう。こんなふうに受け手は、"生理的な部分"が優先してしまうんです。
「脱社畜」にしても同じことだ。社畜という言葉が放つ生理的な不快感は、見た者の怒りを煽る。たとえ"脱"をつけたところで、その不快感は解消されない。
この言葉を親しい間柄で冗談として使うならまだ許されるだろうが、不特定多数の人間をさげすむために使うなら、それは公害以外の何物でもない。
送り手は「真意を理解しろ」と言うけれど
ちなみにこういう話をすると、発信者側からは「会社員を指して社畜と呼んでいるわけではない」という主張が飛び出す。
いわく「『社畜』は会社員全体をさげすむ言葉ではなく、社畜たる精神をもった人間を否定するための言葉である」と。
(発信者の一人は、明らかに「独立起業」や「フリーランス」を「社畜」の対義語に置く発言を繰り返しているが、そこには今回目をつぶって話を進める)
彼らは、こうした「自分たちの真意」を伝える発信が世の中に受け入れられないことに憤りを感じ、真意を理解せずに「社畜」という言葉に"過剰反応"する人間を被害者意識たっぷりに批判する。
が、それは本当に過剰反応だろうか?
率直な意見を述べさせていただけば、そもそも補足説明を加えなければ敵対的な意味で受け取られてしまうようなフレーズを使い続けている方が悪いに決まっている。
彼らの発信が広まらないのは、SNSに蔓延る"アンチ"達の考え方が腐っているからではない。そもそも「脱社畜」という言葉には人の尊厳を否定するようなネガティブなニュアンスが含まれており、そこに素敵な意味合いを後付けで載せようとしても、水と油のようにはじき合ってしまう。必然、彼らの言う「正しい意味の『脱社畜』」が広まることはありえない。
正しく理解すれば、彼らが掲げる理想は崇高なものであり、多くの人を救う可能性を秘めたものだと思う。しかし、気高い理想があるなら、それが伝わるような気高いフレーズを使うべきであって、断じて「脱社畜」なんて下賤な言葉に頼るべきではない。
もし、それでもなお彼らが多くの人間を不快にさせるようなフレーズを使い続けるなら、彼らは自分たちの思想が正しく伝わらないことも、それによって批判を浴びることも、全て受け入れなければならない。殴ったら殴り返される。そうでなければ不平等だ。
ロゴが悪意に拍車をかけている
先日、こんな発表があった。
このロゴの良いところはサロン名がもつニュアンスを的確に表していることであり、このロゴの悪いところはサロン名がもつニュアンスを的確に表していることである。つまり、名称が放つ負のオーラを増幅させる機能を果たしているのだ。
社会に押しつぶされる社畜という存在。その抑圧感の一点を強調している。先ほどの引用になぞらえるなら、ウンコの臭いがプンプンするロゴである。
サロンが明るい未来を目指すためのものであるなら、デザインが示すべきは明るい未来であり、暗い現在ではなかったはずだ。これでは自分たちを上げることよりも相手を下げることに重きを置いているように見えてしまう。
そういう意味では、このロゴと競ったというボツ案のコンセプトは、明るい未来を示していて素晴らしいと思う。うまくサロン名が放つ腐臭を中和してくれている。
サロン名を変えない理由
ここからは、サロン運営者側の視点を想像しつつ考えを述べていく。
これほどまでに反感や誤解を生むサロン名を、なぜ使い続けるのか。
理由の1つとしてわかりやすいのは、名称を変えることでサロン名に蓄積されたブランドがリセットされてしまう危険があることだ。これまで知名度を稼いできた名称だからこそ、その権威が薄れるような事態は避けたいだろう。
もう1つ、重要な理由がある。それは、この名称が集客のために"効く"ということだ。理由は2つある。
①反感を買うことで話題化し拡散する
「脱社畜」という言葉に反感を抱くネットユーザーが批判的な発信を行うことで、サロンの存在が知れ渡る。俗にいう「炎上マーケティング」というやつだ。
②損を解消したい欲求が高まる
広告・マーケティングの世界ではよく知られたことだが、人間は「得をしたい」という欲求よりも「損をしたくない」という欲求のほうが強い。資産形成という「得」な未来を語るよりも、社畜という「損」な現在を語ったほうが、人の心を動かしやすいのだ。
結果的に「脱社畜サロン」というネーミングは集客に貢献していると考えられる。月額費用3000円を支払う人間が増えることは、ビジネスとしての成功を意味している。
ように見えるのだが…。
集客の落とし穴
ネーミングを含む、組織の対外的コミュニケーションには、2つの側面がある。
マーケティングとスクリーニングだ。
マーケティングとは見込み顧客を集めることであり、スクリーニングとは見込み顧客でない人をはじくことだ。
スクリーニングの考え方は、マーケティングと比べると影が薄い。しかし、企業の採用コミュニケーションにおいて採用コストの増幅や採用後のミスマッチを防ぐ上ではスクリーニングの考え方が重要になる。また、近年ではAmazonをはじめとしてネット上での商品レビューが盛んであることから、「その商品を買うことで幸せになれない人」が商品を手にしてしまうことを防ぐ視点がどんどん重要になってきている。
前項になぞらえれば、脱社畜サロンはマーケティングには成功している。
では、スクリーニングはどうか。ぼくは、ここに警鐘を鳴らしたい。
理論上の話になるが、「脱社畜」という言葉に魅力を感じる人は、自分が置かれる環境に対し不満を抱えている人だ。言い換えると、環境に対し不満を感じ"やすい"人である。
環境に対して不満を感じやすい人を集めるとどうなるか。自分自身で状況を切り開く意識が足りなければ、成功者を出しにくくなる。環境に対する否定的な感情が募れば、内部分裂を起こしやすくなる。
前向きな意識で集まるサロンと比較して、組織的な運営が難しくなるのは必定だ。
サロン運営者が、この難易度を乗り越えられるだけの人徳と指導力と包容力を持ち合わせていれば、まあそれでもうまく回るだろう。が、どうだろうか。日頃の発言を見ていると、ちょっと怪しい。
まとめ
以上、感情に任せて色々書いていってしまったので、これを読んで不快に思われる方もいるだろう。その点については非常に申し訳なく思う。
一方で、冒頭に述べたように「脱社畜」が「送り手と受け手の両方を不幸にする呪いの言葉」であるということに納得していただけた方もいるのではないだろうか。
賛否どちらでも構わないので、何か意見があればぜひコメント欄などで連絡をいただけるとありがたい。
アドライター(@ad__writer)
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