天才に轢かれて快哉を叫ぶ
こんばんは。前回もそうでしたが、深夜にこそものを書くモチベーションが湧く体質のようです。そういえば、部活で必要になった文章も、深夜にならないと書けませんでした。
今回書こうと思ったのは、天才への憧憬と歪んだ欲望です。
前回の自殺への考察とは違って、論題提起にも、誰かのためにもならない自分語りですが、読んでくれたらうれしいです。
その発露は中学・高校での挫折だったと思います。あるいは、中学受験で第一志望に落ちたことかもしれません。自分で言うのは良くないですが、小学校の頃の僕はそこそこ賢かったんですよね。本番に強くない自分の性質すら自覚できないまま、謎の驕りを捨てられないまま、受験に臨んで、爆死しました。そのおかげで最愛の母校に進学することになったので、感謝してる節はあるんですけどね。
とはいえ、失意の中入学式を迎えたわけでは全くありませんでした。進学先は結構優秀とされるところだったので、小学校の頃抱いていた「僕より賢い奴に会いに行く」みたいな思いが成就されそうだったからです。それに、当時は女子が本気で嫌いだったので、男子校へのワクワクが止まりませんでした。中高一貫男子校という闇に突入する小学生の9割は、この思いを抱いていたはずです。余談ですが、僕は見事に拗れました。末代です!
…話が少し逸れました。そうして入ってみると、宇宙人が結構いたわけです。比喩なのか今でも怪しい感じの、頭の回転とか見てる世界がだいぶ違う人がいるんですよね。僕の驕りは音を立てて崩れましたが、それは悪いことではなかったように思います。天才への健全な憧憬と、彼らの天才性に触れるための努力ができるようになったので。
一方で、驕りは崩れても、謎の全能感は消えませんでした。「いうて僕ならなんとかなるだろう」みたいな。ならなかったことなんていくらでもあるんですが、なぜか、大学生になった今でも残っています。精神的に未熟なんでしょうね。このおかげで自己肯定感が高くいられて、ストレス少なめに生きられる以上、良いことなんじゃないかとも思ってます。
この辺が相まった結果、天才に蹂躙されることが大好きな人間になってしまいました。すごい飛躍をさせたので、これで通じた人は行間を読むことでお金を稼いでいけると思います。知らんけど。
説明を加えます。僕自身は天才ではないと思うんですが、凡人の中では相当上である自信があります。それに、天才に負けても心が折れない緩衝能力も持ち合わせています。すると、天才の天才性に浸れる特権を得るんですよね。一部の天才は凡人にも理解されますが、大抵は理解されません。天才性が発揮されるフィールドで余りにも能力がかけ離れていると、評価できなくなってしまうからです。体重計でトラックの重さが計測できるわけはありません。でも、体重計と僕らで違うのは、努力でその差を埋めて、近付いていくことができる点です。凡人は天才にはなれませんが、努力で天才性のきらめきを見られるくらいには、登っていけます。
要領を得ない要素の並べ方をしてしまいましたが、繋げてみます。要は、凡人ながら少なめの努力で天才のきらめきに触れられて、かつその勝ち目のなさに辟易できて、でも心が折れずにいられるんです。こんなに良いことはありません。
高校にいる間も、大学に来てからも、ずっとこれを楽しんでいます。天才の間近で、あるいはちょっと遠くから、努力して近付いて、「お前じゃ足りないよ」って、きらめきに門前払いしてもらえる。イカロスの翼みたいだよね、なんて話したりしたんですが、感覚的には全くその通りです。
なんで負けるのが好きかって、一番分かってもらえないところだとは思うんですが、説明することもできないんですよね…。勝ちに向かって詰めるのが好きなのかもしれないですし、一番に立つのが嫌いなのかもしれません。二番とか三番にいるのは好きですし。負けるのは実は普通に嫌いで、天才のきらめきが好きすぎるあまり覆い隠されているのかもしれません。ただのマゾヒズムだったら面白いですね。
まぁ、そういうわけで、努力した上で、天才に追いつけないことが好きっていうのを、かっこよくタイトルにしてみました。すみません、自分語りに挑戦してみたは良いんですが、破滅的に構成力のない文章になってしまいました。自分で読み返して変な顔になるくらいにはひどい自覚がありますが、4時を回ってしまったので、寝ようと思います。これは、この汚文がこのまま放流されることを意味しますが、直す気力も思考力も琵琶湖に置き忘れました。またいつか会いましょう。それでは。