帰省雑記
こんばんは。京都へ帰る新幹線の中、ポルカドットスティングレイを垂れ流しつつ書いています。
一ヶ月ほど帰省していたわけですが、なかなか多くの人と会う/話す機会がありました。その大半は都内や横浜の大学に進学して、実家に暮らしています。特に東大に進学した人に顕著に感じますが、高校時代と比べて洗練されてきているなぁ、と。内面の奥深くは会話やお酒によって掘り出せば変わっていなくて、本人確認が取れるので安心しますが、外側と纏う雰囲気はその人を規定するかのように方向性が固まっています。垢抜けている、というのとは違い、おそらくみんながある程度将来を見据え出したことによる気持ちの変化が表出したものなんだと思います。垢抜けている人ももちろんいるんですけどね。無駄が削がれていっているように見え、無駄が大好きなわたしとしてはだいぶ寂しいですが、恐らくこれが東京流、あるいは現代流の大人になる、ということなんでしょう。何者でもなくふよふよしていても咎められず、何にでもなれるという幼児性を抑圧しないのは、左京区の良いところでもあり、悪いところでもありますね。
わたしが高校時代に忌避してやまなかった"あくせくとした感じ"は、悪いところばかりでもないのだと思います。洗練された友人たちを見ていても、想像していたより悪いようには見えません。寄り道に明け暮れず、ライフステージを着実に上がっていくのも、(少なくともやろうと思ったフェーズにできるくらいには)必要な能力です。左京区では自由と怠惰が入り混じりますが、怠惰に対し自覚的になり、脱却する能力を持たないことには(行使することを義務化するものでもない)、縛られているものがルール、社会通念、義務であるか、怠惰であるかの違いだけで、本質的にどちらも自由には程遠いのでしょう。
換言すれば、「できるけどやらない、は良いけど、やってないからできるかわからん、でもどうせできるっしょ、は大学生のうちにその根拠を固める(つまり、できるけどやらないを各地に確定させる)努力くらいはしてもいいな」と心境が変化しました。
一方で、下宿していてこそ良いこともありました。生活力と常識、社会性は高校の時のそれと比べて相当に改善されたと思います。これは生きていたら勝手にマシになる類ではなく、意識的にでも無意識的にでも、ひとり暮らし的な経験をしてこそ成長するパラメータだと感じます。親に学費を払ってもらっている以上金銭的には全然自立できていない身ですし、生意気は言えたものでもないですが。
東京は外っつらを優先するところがあると思います。大学生とはかくあるべき、みたいなキラキラした像から逸脱した人生をどこかで、しかし激しく拒絶しています。それを整えるのにはある程度の労力を要しますし、洗練されたみんなは見据える方向に向け努力を重ねています。サークル活動やバイトにも時間が必要です。そういった中、生活力という今はまだ誰にも見られないところにリソースを回すのは、特に男性であれば、なかなかやろうと思えることではないでしょう。わたしも東大に進学していたら確実に放置していた能力だと思います。放蕩息子として暮らし、京大生と知り合って得た人格の変化も良かったですが、それより"分かりやすい"魅力でした。昔はまるで意識していなかったので、僥倖です。
それにしても、これだけ痴態を晒し続けているわたしの将来に期待してくれる人がいるというのは意外でした。友人は、方便かもしれませんが、お前はやればどうせできるんだし、そろそろだろ、みたいな言葉を投げてくれます。親もそろそろ見放すかなと思っていましたが、なんだかんだ対等な目線で話してくれましたし、後期も学費を出してもらえるようです。帰り際には頭をわしゃわしゃされて頑張ってきなさいね!とよくある小説みたいな送られ方をしました。10年前の自分が今の自分に宛てて書いた手紙を読む機会があったのですが、それにも幼いながらに「僕ならできるでしょ」という傲慢さが見え隠れする文章が記されていました。自分に向けたそれは、少なくとも今のわたしにとっては最大限のエールだと思えます。
見放されないうちに、という考え方はあまり好きではないですが、後期は"やればできる"が果たして通用するのか確認できるくらいには、学業に精を出さないといけないみたいです。化学の興味もちゃんと再燃しているので。短いですが、結びとします。またいつか。