遥か昔に痴漢をされた経験と、僕の周囲の事例を基にした10~20代女子のケアについて(【連載】「脱境界」化するネット・リアルと性犯罪――ネットにおけるグループ等管理者の責任と注意義務①)

はじめに

 痴漢、売春、レイプ――なぜか僕の周りでは、こういった問題が頻発する。
 盗撮だけは知っていたら警察に通報しているので、認知件数はないが。とはいえ、盗撮も証拠はないだけで、怪しいのは何度も見かけた。

 僕自身の体験で言ったら、小学6年生の時に、ガラガラの電車内で中年のオッサンにおしりを触られた。1回目で「ん?」と思い、2回目でなんとなく察して、3回目は手持ちのバッグで防いでオッサンを一瞥した。
 当時の僕は別に満員電車の時に意図せず当たったのと何ら変わらないし、と特に何の感情も抱くことはなかったし、今もなんとも思ってはいないが、仮に僕が女子小学生だったらまた違った感情を抱いたのだろうか。

 僕自身に対してはそれでいいが、「僕の周囲の女の子に対して」となると、話は大きく変わってくる。絶対に許さないし、例え一度顔を合わせただけ、ネット上で何度か話しただけの関係であっても、絶対に守る。
 そして、そういった問題は深刻化すればするほどやっかいになっていくので、一番はじめ、芽が出てきてすぐの時に徹底的に潰すようにしている
 おそらく、周りからすれば「そんなことで」とか、過剰に見えることだろう。しかし、これには理由がある。

 僕のネット上の知り合いには、児童虐待を受けている中高生が5人いる。2年前には、性同一性障害を周囲に隠して日常生活を送っている高2の子と、人間関係に悩む中2の子がいた。今挙げた7人とも、いずれも女の子だ。というより、僕は次に言う理由があって、10~20代の女の子のケア・カウンセリングに絞って勉強をしたので、それ以外を論じることはできない。

 「人間関係に悩む中学2年生」というとありがちだが、この子が一番深刻だった。その子は翌年、売春をするようになっていた。未成年飲酒も併発している。出会った頃にしていたリストカットは、今でもしているのだろうか。おそらく、しているのだろう。
 こういえば、その子の深刻さが読者にも分かるはずだ。
 詳しくは話したくもないが、最後に彼女の面影を見たのは、○○大学の学生らしき男のツイート(ポスト)で、「jcま○こ気持ちよかった」などという内容のポストをされていたことだ。特定を避けるためにぼかしているが、実際の文面はこれよりも長く、これよりも見るに堪えなかった。
 いや、僕以外にはなんてことのないツイートだったに違いない。引用元の彼女は名前を変えていた。相互フォロワーも9割程度解除していた。ただし、僕のアカウントはFF内(相互フォローの状態を指す)に残っていた。売春を始める前のツイートはすべて削除されていたから、彼女のことを全く知らない人や、SNS上でなんとなく関わっていた人には、彼女だと分からないはずだ。でも、アイコンと発言内容から、僕には彼女のことだと「分かって」しまった。
 売春をしていても、どんな生活をしていても、彼女が幸せであればそれでいい。いいはずなのに、僕はどうやらそうは思えていないらしい。そうして生きた彼女の未来が明るいとは到底思えないからだ。真面目に学校生活を「頑張って」いた彼女の姿を思い出して、いたたまれなくなる。でも、「今」は刹那的とはいえ幸せをひとかけらでも享受していると考えると、楽しいことのない人生に刹那的な快楽が1つでもできたと考えると、それでいいのだろうか。

 他にも、彼女のポストには売春仲間の女の子とお酒を飲む画像もあった。僕はそれ以来、その子との関係を絶った。僕は彼女にとって、それなりに大きい存在だったはずだ。大学生しかパパ活の相手に選んでいないのも、当時大学1年生だった僕が変な影響を与えてしまったのかもしれない。当時僕が彼女と話す唯一の大学生だったはずだから。ブロックをして彼女のメンタルに影響を与えてはいけないから、Twitterのアカウントも消した。今思えば、その対応だってよくない。でも、知らないうちに消えてしまえば、とその時は思った。僕は逃げたのだ。僕のアカウントが消えていることに気付いた彼女は、一体どう思っただろうか。消えていることにすら、気付かないでいてくれれば、どれだけいいだろう。

 その子だって最初は、「学校がつらいよー」ってだけだった。催眠に興味を持ち、そこからフロント、ユングの精神分析論を読み、触りだけカウンセリングを勉強していた僕は、軽い気持ちで彼女の相談に乗った。いや、そんな勉強をしていなくとも、彼女の相談に乗っただろうが。
 話によると、学校で孤立してしまっていると。よくあること、のはずだった。

 相談に乗っていくうちに、彼女が日常的にリストカットをしていることを知った。その時点で僕の手に負えなさそうなことが分かったから、スクールカウンセラーを勧めた。中学生1人で専門機関を受診させるのは、経済的な面でも、親に事情を説明しなければいけない点でも難しい。
 しかし、頼みの綱のスクールカウンセラーも、「行ってみたけど信用できない」で終わった。スクールカウンセラー以外でと考えても、学校生活が辛いのに、学校の先生が信用できるはずもなく。こうなると、僕1人でなんとかするしかない。

 結果はご想像の通り。
 いや、それとは違うか。僕はカウンセリングに失敗したのではない。読者が思っている以上の罪を、僕は犯している。

 当時の僕は、通常のカウンセリングのように、日時を決めているわけではなかった。「なにかあったらいつでも相談してね」とだけ言っておいたのだ。

 彼女の相談に乗ってから、半年が経っていた。
 僕も大学生である以上、日常生活がある。ちょうどその時、大学のテスト期間があった。だから、僕はテスト勉強に専念するために、2週間Twitterを絶った。その時に、彼女からDMが来ていた。テスト期間が明けてからも、麻雀に熱中していた僕は、麻雀のアカウントだけを使っていた。
 そのDMに、僕は半年後に気付くことになる。全てが手遅れだった。その半年は、致命的なまでに事態を深刻化させていた。僕は大学2年生になっていた。「いつでも相談して」と言っておきながら、半年もSOSに気付かなかった。いつでもと言っておきながら、毎日チェックしておかなかった。僕が、彼女が道を踏み外すきっかけとなった。1人の女の子の、薄氷の道を、彼女がなんとか歩いていた薄すぎる道を、僕が叩き割った。その罪は、あまりにも重い。法律では決して裁かれない。償いの手段も知らない。でも自分の中では、殺人に匹敵する罪と言ってもいい。

  それから、僕は気軽に「いつでも」とは言えなくなった。言うのは、本当に「いつでも」対応するという覚悟を持った時だけだ。
  気休めで言う「いつでも」という言葉は、それが真実でなかった時、その言葉で勇気を出して声をかけてくれた子の全てを奪う凶器になる。

 そして、僕は彼女のこれからの人生の行く末を、見守れる限り目に焼き付けておくべきだったのに、その罪から逃げた
 そこから僕は、カウンセリングや性犯罪について、10代~20代の女性に対象を絞って本腰を入れて勉強することになった。僕のサイトのプロフィールに、大2で性犯罪について学んだと書いているのは、そういう経緯からだ。

 彼女が、僕が匙を投げた最初の女の子であり、最後……になる予定の女の子だ。

 僕は、自分を許さない。「いつでも」という言葉を軽く吐いていた自分も、彼女をきちんと導いてあげられる実力のなかった自分も、彼女から逃げた自分も。

 彼女のことがあったから、僕は経済学部でありながら、教育学と、心理学・カウンセリングの勉強にここまで本気になれたのだ。

 売春といったらお金を目的としているようだが、彼女の売春はそうではない。首を絞められながら犯されるのが好きらしい。要はリストカットと同じ、自傷行為の延長線上にセックスがあるのだ。

 僕は仲間内で、仲間内以外の人がいる場所でも、「中学生かわいいよね」とか、「あのJCいいわぁ」みたいなことを公衆の面前で堂々と言うことがある。誰も気付かないが、僕にとっては下ネタ以上の意味がある。
 そういったことを言うことによって、僕はその時に見た彼女の売春相手のクズみたいな大学生のポストを思い出し、そして彼女のことを思い出す。決して忘れないために。同じことを二度と繰り返さないために。
 周りの女の子達から冷ややかな目線を向けられたとしても、構わない。むしろそれは、彼女らが正常な感性を持っていることの証明となり、逆に喜ばしいことで、安心する。
 僕のこれも、自傷行為の1つなのかもしれない。

 ネット上でのカウンセリング、つまり非対面のカウンセリングは、表情や息遣い、間が分からないなど、対面でのカウンセリングより遥かに難しい。
 相談に乗っているときも、何度彼女に直接会って寄り添ってあげたいと思ったか分からない。だが、人間関係の相談事に、臨床心理士の資格も持たない一般の大学生の男が、故郷とはいえわざわざ遠方の女子中学生に会いにいくという構図の方がマズい気がして、どうしても言い出すことが出来なかった。リアルで知らない子に、どうしてあげることもできないという難しさともどかしさが、オンラインではあるのだ。

 会う、という手段が断たれている以上、有効な手立てを探してあげることも難しければ、当然だが催眠という選択肢を使ってその子を治療してあげることもできない(催眠の施術には、現状特定の資格はない)。
 僕に催眠を施す技量はないが、もし会うことが可能であれば、専門機関の講習でもなんでも受けにいっただろう。なんにせよ、深刻な事例にオンラインで対応することはとても難しいというのは、有識者の同意を得られるはずだ。

 だからこそ、ネットでグループのリーダーをしたり、なにかのオープンチャット等、グループを運営している人は、「芽が出た瞬間に潰す」ことが大切だ。だから僕はそういう「芽」に対して過剰な目を以て反応する。

 「彼女」のことにしても、彼女がリストカットを始める前に出会えていて、最初期から寄り添ってあげていれば、芽は潰せたかもしれないのだ。

 大事になるのを避け、適当に流していては、その芽のほとんどは自然消滅するだろうが、たまたま1つが育った時に大変なことになる。

 このnoteの連載では、そうしたことに対して、「芽を摘む」ということをテーマに書いていきたい。

 ここまでの話は重いし、タイトルは物々しいが、論文ではなくnoteだ。論文ではないので、持論をゆるりと語っていこう。普段僕がnoteで使っている、ですます調でないのは論題がお堅いものだからだ。論題がお堅いものに対してですます調で書くと、字数が長くなりがちだという個人的な事情なのでございます。

 内容が内容なだけに論文として書いてもよかったのだが、そのためには現在最先端でどのような議論が交わされているのかを調べつくさなくてはいけない。あと、参考文献も、引用するたびに「これは○○の□頁からもってきました」と書かなくてはいけない。
 論文は「誰が最初に言ったか」を大事にするので、勉強して今や自分の知識となっているものでも、もう一度その文献に当たってどこに書いてあったか調べ直す必要がある。どれに書いてあったか覚えていなければ、家にある本という本をひっくり返して探さなければいけない。これが非常に面倒で、論文を書いている時間よりもそちらの方が長くかかるとかいうのはザラ。
 体験談や周囲のことも、論文では「n=1であって、一般的に言えるとは限らないよね」とか茶々を入れられて、そうしたことを書くことができない。

 最初に宣言しておく。この連載では、厳密さを捨てる。文系論文のようだと馬鹿にされても結構だ。僕は文系なのだし、論文ではなくnoteなのだから。
 声にならない声を産み、声にならない声を拾いにくいのが、厳密な論文の悪いところなのだ。目の前に1人の少女が苦しんでいて、その子にどう対応すればよいか考えているのに、「それはその子に限った話でしょ」と言われると、話にならない。だが、それが研究論文だ。
 だからnoteで書かせてもらうことにする。一番適当なプラットフォームだろう。



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