「こうあるべき」芸術、「こうあってもいい」芸術、「こうであってほしい」芸術
本来なら、この記事を出す前に書き残しておくべき体験記がいくつもある。
12月末に巡ったイギリスのこと、1月初めのスイス、イタリア、フランスの旅。そして、10月から溜め込んでいるバレエ・オペラ・ミュージカルの観劇記も。怠惰なのか、言葉が足りないのか。反省すべきことは多々あるけれど、一旦棚に置いておいて、、、今回ばかりは記憶が新しいうちに書き留めておきたい。これを書き切ることまでが、「旅行」です。
芸術に囲まれた10日間を過ごした。
これまでバレエオタクを名乗るものとして、特にヨーロッパ芸術には幅広く関心を示してきた(つもりだ)。そんな私が、10日間に多ジャンルの芸術を濃縮させたとき、私に迫ったのは「善き芸術とは何か」という根源的な問いだった。何を善きものとするか、それは個々人の主観あるいはディスタンクシオンだと片付けるのは簡単かもしれない。しかし、下記に示す芸術作品らはあまりにも長い時を超えて一定の人々から評価されてきた。そうしたものですら、自分が深く感動するものとそうでないものが明確にある気がしている。私は、自らの感動バロメーターは何によって動かされるのか、そしてその感性は何に起因するものなのか、気になって仕方がない。
【今回触れた芸術界隈】
・バレエ『ジゼル』 in ミュンヘン(ドイツ)
・音楽(ラヴェルを愛する音楽家の友人との対話) in ミュンヘン
・オペラ『ラインの黄金』inパリ(フランス)
・絵画(写実主義からロマンティシズムを中心に) at オルセー美術館
・ミュージカル『マチルダ』in ロンドン(イギリス)
・ジュエリー(エリザベス女王の王冠) at V&A美術館
私は、この10日間を共に過ごした人とそれらに対する論稿を書こうと約束した。しかし、それをスタートさせる前に、まずは私自身の美的体験と知的体験、そして感動体験の言語化を図りたい。
①私が「美しい」と思うもの
美しいものに浸っていたい。
私を芸術の世界に結びつけている情熱はこれである。美しさとはすなわち、達成し得ることのない〈完全状態〉に対する人間の限りない挑戦だと捉える。それは、エネルゲイアの体現とも言えるだろうか。そうした活動によって生まれた美は、観客を知らぬ間に没入させる。時空間から瞬間的に離脱し、無目的を目的に美を探求する時間。そうした観客の純粋な感性を呼び起こすものを、私は美的体験だと定義する。
こう前提を置いて私が美的体験によって感動するとき、いくつかの要素が必要になる。まずは芸術家の活動の先にある〈完全状態〉に共感できること。それは発信者と受信者との目指す世界観の一致だ。次に、その〈完全状態〉を作品がどれだけ体現しているのか。それは、芸術家自身の技量に関わる部分である。足の高さや回転数、そして感情表現など全てにおいてメソテースが見出されているとき、その表現は私を一気に美的体験に没入させる。そして最後に、そこに芸術家という人間性が感じられること。芸術家の生い立ちなどの背景情報に限らず、彼らの作品の中に立ち現れる人間味という名の不完全性もしくは素の部分を感じられた時、私の美的体験はさらに深いものになる。
このように文字に起こしてみると、どうも私の芸術観は保守的なようにも見える。なぜならば、この論理に従えば、私の中にある「こうあるべき」美しさが体現された芸術作品でしか私に美的体験をさせえないものであるからだ。ミュンヘンで見たバレエ『ジゼル』、パリでみたミレー、モネ、ドガ、ルノワールの絵など、私が好む芸術作品はまさにそれであった。これらを鑑賞するとき、私は表現者自身と向き合っている。
②私が「知的刺激」を受けるもの
とすれば、次に私が気になるのは、伝統から逸脱した芸術を私がどう捉えうるかだ。前衛的な芸術において私が対峙するのは、表現者ではなくその裏にいる制作者である。既存の枠組みから逸脱した表現をあえて行う彼らは、何を意図しているのか。このとき、私は「こうあるべき」芸術の概念をエポケーさせる必要がある。そして、一度物に対する見方をフラットにして、制作者の意図を汲み取ろうという理性的な思考を回転させる。制作者の「こうあってもいい」芸術論に耳を傾けるのだ。
私にとって、美的体験が無目的を目的に美を追求する時間だとすれば、こうした前衛芸術の鑑賞は、制作者の意図に想像を広げるという知的刺激の時間となる。しかし、前衛芸術の難しい点は、制作者の「こうあってもいい」が鑑賞者を納得させるとは限らない事である。制作者からの挑戦的提案が、鑑賞者を納得させたならばそれはアバンギャルドとしての成功例であろう。実際、新作バレエ公演などでそうした事例は何度も見たことがある。しかし、最後まで「こうあってもいい」芸術の良さが理解できなかったとき、それは「理解不能」な芸術になってしまう。ここまでくると、芸術の非伝達性の議論に切り替わる。デュシャンやケージは偶然性や無意識的体験を重視し、解釈の多義性を追求したが、「わからなさ」の体験そのものに芸術的価値を見出すことは可能だろうか?そもそも芸術とは明確な目的をもって取り組まれる活動なのか?
パリのバスティーユ劇場で鑑賞したオペラ『ラインの黄金』はまさに「わからなさ」の体験であった。開幕直後、私はそれまで1ヶ月間予習していったワーグナーの『ラインの黄金』の世界観を捨てなければいけなかった。そこから2時間半、私はどうしても舞台上の歌手たちの表現に意識をもっていくことができなかった。それ以上に、この舞台の制作者であるカリスト・ビエイトの意図というものに思考を巡らせる必要があったのだ。もしかすると、それ自体が彼の意図している鑑賞法なのかもしれない。ビエイトによるワーグナーオペラの「こうあってもいい」芸術を鑑賞するとき、私はワーグナーでも舞台上の歌手でもなく、ビエイトという制作者と向き合っていた。
③私が「感動」するもの
「感」情が「動」く、と書いて感動。
人が心を揺さぶられる体験は、様々な次元から現象する。例えば本質的に美しいものに触れたとき(自己超越的体験)、自らの想定を超越した意外なものに出会ったとき(予測不可能性)。それらに加え、他者のストーリーに強い共感をしたとき(情動的反応)、私たちは感動を実感する。
クラシカルアート、アバンギャルドアートに対比させ、コマーシャルアートが私に仕掛けるたのは、まさにこうした「感動」である。ミュージカルでは観客の情動が精巧にデザインされている。壮大な音楽、分かりやすいテーマ、ダンスや演技によるキャラクターへの共感、視覚的な舞台技術による世界観への没入。これらは、観客の潜在的な「こうであってほしい」という期待に100%呼応する。そうしたミュージカルの機能は、かつてアリストテレスが演劇に期待したカタルシス的効果を踏襲しているとも言える。
例えば、今回私が感激したミュージカル『マチルダ』では、家族からの抑圧、校長の不正義への対抗、そして主人公自身の成長物語が主題である。こうしたストーリーテリングは、観客の潜在的な抑圧的情動を解放させ、強い共感と感動を生み出す。特に、今回の作品では何百人もの観客の前で歌って踊る子役の姿は、見ている大人たちの情動をさらに沸き立たせたに違いない。それに加えて、アクロバティックなダンスや精巧に駆使されたライトの使い方、そして舞台装置は常に意外性を発揮し、観客を終始飽きさせることがない。観客を非日常体験に誘うような時間。私はこの作品を見ながら、演者でも製作者でもなく、観客である自分自身を俯瞰して見ていた。それは、ミュージカル側が前もって予想し仕掛けて来た私の感動ポイントを、自分自身と答え合わせするような感覚であった。
④「善きもの」とは何か?
美的体験と知的刺激、そして感動。
それは、言い換えれば、感性と理性、そしてそれにともなう情動とでも言えるだろうか。ここで私はそれぞれの芸術を比較して優劣をつけるつもりはない。しかし、今回、10日のうちに複数の芸術を楽しむ上で、私は作品に接する前提を毎度変える必要があった。その中で、「どの楽しみ方もそれぞれ良い」などと締めくくることはできなかった。
「こうあるべき」というクラシカルアート、「こうあってもいい」というアバンギャルドアート、そして「こうあってほしい」に応えるコマーシャルアートなど、呼び方は様々ある。しかし、結局のところ芸術とは何だろうか?
伝統を守ることが芸術だとすれば、忠実な再現と時空間における一回性が最高の芸術となる。では、そこにおける私の美しさの水準はどのように作られ測られるのか?
伝統を更新し、現代的な意味を与えることが芸術だとすれば、解釈の自由こそが芸術を生み出す。では、私はその挑戦に対し、どこまで解釈する思考力の幅を持ちうるのか?
観客の体験を創り出すことが芸術だとすれば、芸術は「感動を提供する技術」にすらなり得る。では、「技術」は芸術たり得るのだろうか?
こんな問いを抱えながら、続編の原稿では個々の作品に向き合っていく。
序章の最後にひとことメモ書きを残すとすれば、今回の私の旅で私の心を最も揺さぶったのは、生きた妖精のように舞うKsenia Shevtsovaの1幕の少女ジゼルと、自然讃美をテーマにしたミレーの絵画『春』だった。それらは、「期待通り」の、私の好きな伝統的な美の世界であった。やはり、私は純粋無垢な、美しいものが好きらしい。そうした夢見心地な幸せな世界観は、どのように発想されるのか。私の観たいものを描くアーティストの感性に、私は強く興味がそそられる。