見出し画像

「ホーム」はひとつじゃなくていい

何気ない会話のなかで、新たな発見が生まれたり、心のしこりが溶けていくことは、珍しいことじゃない。今日も、そんな出来事があった。

NINIROOMは、さいきん長期滞在のゲストが増えてきている。今日も新たに、1ヶ月滞在するゲストが来た。名前をウミさんと呼ぼう。

夜、他のゲストも一緒に共有スペースでご飯を食べながら、あれこれ話を聞いた。

鳥取出身のウミさんは県内の大学に通い、カナダで留学やワーキングホリデーをしながら、計5年間過ごしていたそう。昨年帰国し、今年の1月まで鳥取の実家で過ごしたあと、NINIROOMでの滞在が始まった。

カナダでのこと、鳥取のこと、大学で勉強していたこと。おしゃべりが始まってから1時間半くらい経ったころだろうか。ウミさんがこんなことを言った。

「わたし、自分の<ホーム>がどこだか分からないんです。カナダで出会った友達は地元に帰っちゃったし、鳥取も、そんなに友達との繋がりは深くないし。どこにいても孤独感を感じるというか」



ウミさんが言いたかったのは、ソフトバンクホークスの福岡、サザンオールスターズの湘南のように、「ここが自分の居場所だ」と感じられる場所がない、みたいなことだと思う。自分がその地に根づいている感覚を伴った、唯一無二の場所、みたいな。
ひとりにつき1個、「体も心も帰ってこれる場所」をもっているはずなのに、わたしには無い、という主旨。

でもそれって、「あれもこれも全部揃った100点満点の1箇所」じゃなくてもいいのでは?と、わたしは思っている。

ウミさんの言う「ホーム」が「ホーム」たる背景には、いろんな要素が混じっている。土地に愛着を感じていたり、文化に惚れ込んだり、顔馴染みの人や、大切な人がいる場合もある。
この時に、ひとつの「ホーム」に、その要素が全部そろっている必要はない気がする。

わたしの実家は静岡県袋井市にあるけれど、地元の友達とはほとんど連絡を取っていない。家族はいるけれど、家はあるけれど、それだけ。

一人ぐらしをしている関東には、お手伝いしているバーがある。バーの常連さんは、お父さんとかお兄ちゃんとかお姉ちゃんみたいに、見守ってくれる、頼れる存在だ。大学で出会った大切な友達もいる。
でも、死ぬまでここでくらしたいとは、今のところ思っていない。土地への愛着は、そんなにない。

南伊豆には、ローカル×ローカルがあって、スーパーのだだっ広い駐車場から見える満点の星空があって、自転車で走ると気持ちいい川沿いの遊歩道に、弓ヶ浜がある。
京都には、NINIROOMがあって、頭の中を空っぽにしてぼーっとできる龍安寺の枯山水も、厳かで澄んだ空気に浸れる三十三間堂もある。
ゲストハウスには家族も親戚もいないし、連続して1ヶ月以上いたこともないけれど、そこに行けば「ただいま」とわたしは言いたくなるし、「おかえり」と返してくれる人がいる。

「ここに自分はいる」って思える場所は、たったひとつじゃなくていいし、完全無欠じゃなくていい。むしろ、あっちもホーム、こっちもホーム、って方が、素敵じゃないか。


みたいなことを、ウミさんに話した。

え、刺さった。固まってた心が溶けてるみたい、とウミさん。
今度はそのセリフが刺さったわたし。すっごくすっごく嬉しくなって、その日のうちにnoteにしちゃいました、というお話。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?