夏風邪(三)
2016年 8月 北海道 圭吾
札幌駅に着いたとの連絡を受け、僕は待ち合わせのロータリーへと向かった。
せっかく東京からの旅行者を迎えるというのに、ここ数日は雨が降り続いた。
しかし早朝に雨は上がり、すっきりとした青空に、大きな入道雲がゆうゆうと行き交っている。
中学の友人で構成される、GMメンバーに晴れ男か晴れ女がいるのかもしれない、などと考えながら歩いていると、汗ばむ陽気になってきた。
僕はほんの2年ほど前まで、未踏の地であった北海道で、獣医を志すべく酪農大学に通っている。
大学2年生にはなったものの、日々新たな発見や困難に遭遇しつつも奮闘している。
新たな知識を確実に習得しているのが楽しくて仕方ない。大の動物好きの僕にとって獣医は、天職になるだろう。
大学生活にもすっかり慣れ、友達も増えた。まずまずの充実した日々を送っている。
今朝は早朝に、厩舎で暮らす牛や馬の体調確認をする当番だった。メールで助教授への報告を終えた。これで3日間は皆と存分に遊べる。
「北海道ははじめて。」という由佳は、もちろん今回の旅行に気合十分。ロータリーで僕を見つけるなり、大きなキャリーケースを一緒に来た友也に預け、こちらに走ってきた。
快活で好奇心旺盛な由佳と比べ、いくらか内向的な紗和。
観光客で賑わう真夏の札幌で、紗和の色白さは人一倍目を引いた。膝上の丈の短い水色のワンピースから突き出した手足は長く、とても華奢で、通行人さえも振り返るような様子だ。
大きな麦わら帽子を被り、ぎこちない会釈で、こちらに微笑みかけている彼女は、僕にとってまだ少し距離感があるように思えた。
紗和とは先月の7月から2人で何度も出かけたこともある。互いの大学生活や、中学卒業から再会まで、約6年間の出来事についてたくさん話した。この旅行で僕以外の皆とも、仲を深めて欲しい。そして僕は個人的に、紗和についてもっともっと知りたく、この旅行を心待ちにしていた。
大学の友達から、小樽運河で夕暮れに催されるクルーズがとても綺麗だと聞いており、皆を連れて行ってみることにした。
小さな小舟がゆっくりと運河の水面を撫でるかのように静かに進む。
皆が夜景をカメラにおさめようとはしゃいだ。
僕らは、濃い藍色の夜に向かって小舟にゆられているようだった。頼りなく揺蕩う小舟と夜の始まり。
ふと自分でも思いがけず、哀愁に似た寂しさを感じ、半ば反射的に紗和に目をやった。
彼女は小舟が運河に立てる、小さなさざなみを熱心に見ている。てらてらとした運河の波は鱗のように見えた。夜の訪れとともに真っ黒になったその水面の下にあるべく、別の世界を見ようとせんばかりに。
紗和も旅行を楽しんでいるというのに、僕は突然不安になった。
彼女の真っ白な顔は外灯のオレンジ色に染まり、水面の反射で輪郭がぼんやりと青白く照らされている。
ほんの少しの間、時間が止まったかのように、僕は彼女から目を離すことができず、紗和に見入ってしまった。
気づくと彼女も不思議そうにこちらを見ている。目があって我に返り、慌てて反射的に目を逸らした。
小樽から自宅の最寄駅に着くと、もうすっかり夜になっていた。
僕の家の近くは街灯もほとんどない。夜空に浮かぶ無数の星々は驚くほど白く明るい。東京ではここまで星が見える場所はなく、皆驚いていた。
夏の大三角を成す、大きな星がはっきりとした意思を持ち、僕に合図を送るかのように、ひときは輝いて見えた。僕の心は星空に見透かされた。そして先月の紗和との出会いからずっと抱いていた自分の感情に、改めて気付かされた。
僕は、空を見上げる紗和の手を握った。他の友人に気づかれないようにそっと。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔を綻ばせた。
触れたばかりの紗和の手は冷たかった。手を繋いで歩くに連れ、徐々に僕の体温がうつり、紗和と僕の体温が同じになる感覚がとても愛おしかった。僕はこの夜がずっと続けばいいと強く願った。
9月になると紗和はゼミの活動で忙しくなり、台湾へと交換留学へ旅立った。