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Outer Wilds:DLC考察2

この記事はDLC考察の2回目です。前回はこちら

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注意:この記事には『Outer Wilds』本編およびDLC『Echoes of the Eye』の重大なネタバレがあります。未クリアの方の閲覧は推奨しません。


















流れ者住人の精神性

前回は長めの前置きでした。今回から数回に分けてDLCの本格的な話をします。まずはDLCの舞台である流れ者と、新種族の「住人」について。

(※流れ者の種族には正式な公式名が存在しないので単に「住人」と書きます。特に断りがない場合、この一連の考察記事では住人=種族全体を指します)

DLCは様々な面で本編との対比となる要素を取り入れており、ストーリー面でだけでなく、攻略的な面でも様々な対比が目に付くような構造になっている。例えば宇宙を広く飛び回る本編に対し、DLCでは閉鎖空間の闇の奥へと踏み込んでいく…といった感じ。謎解きについても、本編では「この先に行ってみたいけど遺跡が壊れていて進めない」「アンコウ」のように自然に発生してしまった問題に対処する場面が多いが、DLC(特に中盤以降)では人為的な謎に立ち向かっていくことになる。

中でも最も明確な対比はNomaiと住人の対比だろう。Nomaiが広大な宇宙を旅する一方、住人たちは故郷を愛し、おそらくは長い間そこでの定住生活を送っていた(※憶測)。Nomaiがワープ技術のような超高度なテクノロジーを種族全体で柔軟に取り入れていく一方、住人たちは木造建築に住み、伝統衣装的な衣服を身にまとい、ロウソクを光源として暮らす伝統的なライフスタイルを重視していた。やろうと思えばクローキングフィールドのような超すごいものも作れるが、あえてそうしない美学のようなものがあったのではないか。少なくとも文化面においては保守的な傾向が随所に感じられる。

Nomaiが適応力と柔軟性に優れる一方、流れ者住人は伝統と不変を重んじる種族であったと言える。

エンディングにも対比がある(空を目指し続ける/地の底で終わりを迎える)

ふたつの種族には共通点もある。Nomaiと流れ者の住人はどちらも『宇宙の眼』を目指していた。しかしここまで挙げてきた対比を考えてみると、両者が全く同じ目的で『眼』に向かおうとしていたとは思えなくなってくる。Nomaiと住人とでは、その精神性に大きな違いがあるからだ。例えば我々地球人類が『眼』の信号を発見したとして、いきなり全人類が団結して「皆で宇宙の眼に行こう!!」となるかといったら絶対ならないでしょう。精神性が違うのなら、考え方や行動にも必然的に違いが出る。

Nomaiにとって『眼』は純粋な探求の対象だった。流れ者住人にとっての『眼』はいったい何だったのだろうか? 彼らは『眼』に何を求めていたのか?

『宇宙の眼』を目指した動機

DLCプレイ当時、住人たちが『眼』の信号を発見し流れ者を建造するに至ったスライドリールの完全版を見て、筆者はかなり動揺した。文字通り絶句しました。住人たちの故郷への愛は言葉が通じなくても疑いようがないが、そんな彼らが何故あんなことをしてまで『眼』に行かなければならなかったのか。

思えば住人が信号を発見した時の様子もかなり異様というか、とにかく大騒ぎになったことくらいしか分からない。意外なことに、住人たちがどんな目的で『眼』に行こうとしたのかはどのスライドリールでも直接的には説明されていないのだった。

当時の私が無い知恵をしぼって考えたのは、住人たちは彼らがいた星系の恒星の死から逃れようとしていたのではないか、という仮説だった。

ちょっと脱線するが、流れ者のスライドリールやビジョンは大きく分けて2種類あり、写真のようなものとによる表現のものに分類できる。住人たちが保管庫のパスコードが書かれた板をあれこれしていた時のスライドリールが前者、流れ者で何があったのかを説明する物語的なスライドリールは後者、といった具合。

ここで重要なのは、絵タイプの映像には演出が加わっているという点である。実例を挙げると、流れ者が『眼』に到着したあと、住人のひとりが『眼』をビジョントーチで分析して見た映像には現実ではありえない描写が含まれていた。『眼』が放った光によって宇宙の星々が砂のように崩壊し、に向かって落ちていく…という描写のことです。これはおかしい。もっと言うとその直前の、住人が『眼』のシンボルに向かって「やあ」と手を上げるシーンも現実的に考えると変なのだが(どういう状況?)、つまるところ絵タイプの映像は必ずしも現実をそのまま描いたものではないということになります。

前述のスライドリールをよく見ると、彼らが故郷と同様に愛していたであろう土星風の惑星に恒星の赤っぽい光が反射しているのが分かる。更に、この恒星と本編の舞台である星系の太陽を見比べると、流れ者の故郷の恒星のほうがより強く、明るく光っている(そして大きい)。何気ない描写だが、実はこれこそが流れ者が『眼』を目指した、というより行かざるを得なかった理由の説明だったのではないか。故郷の恒星は寿命を迎えようとしていたのだ。

そう考えると、『眼』の信号を発見した住人の驚愕の表情、呼びかけを聞いて集まってきた住人たちの熱狂ぶりにも納得がいく。本作の宇宙は全体が死に向かいつつあった。本編とは数十万年の(宇宙のスケール的には誤差の範囲程度の)時間差はあれど、故郷の恒星もそうなる運命にあったのは間違いない。

住人の技術力を考えれば、彼らがそのことに気付いていなかったとは思えない。しかしながら、いくら技術があったとて恒星の寿命をどうにか出来る者などいるはずがない。実際にその時が来るのが数万年後でも数百年後でも、それよりも早い段階で宇宙は生命にとって危険な状態になる。思い返すと、流れ者の中には子供(のミイラ)はひとりもいなかった。恒星、あるいは宇宙の死が近いことを知った彼らは未来への希望を失い、子孫を残す意欲を失っていたのではないか。

そんな状況で「宇宙よりも古い信号」を発見したらどうなるだろうか? 逃れようのない宇宙の死から救われるかもしれないという希望を『宇宙の眼』に見出したとしても不思議ではない。宇宙の終わりを乗り越えられる何かがそこにあるかもしれないのだから。『眼』が何なのかも分からないまま数世代に渡る探求を続けたNomaiと違い、住人たちには差し迫った事情があったということになる。

この仮説が合っているか否かにかかわらず、住人たちは『眼』に何らかの強い期待を持っていたことだけは間違いない。期待が大きかったからこそ、それが違えた時に「裏切られた」という感情が湧き上がるからだ。住人が『眼』の真実を知ったあと、単に悲嘆に暮れるだけでなく復讐のような行動に出たのは『眼』が彼らの期待を最悪の形で裏切ったからに他ならない。

補足:もうひとつの根拠として、流れ者が超新星爆発への備えをしていた件を挙げておきたい。そもそも超新星爆発は広い宇宙の中でもそうそう起こるイベントではないのに、わざわざ自動で対応するシステムを準備してあるのは偶然ではありえない。だが彼らが恒星の死を強く意識し恐れていたとするなら、事前にその危機に備えていたのは当然の準備ということになる。

住人が『眼』に抱いた怒り、憎しみは、その後の彼らに更なる悲劇をもたらした。しかし彼らの本質が元々そうだったのではない。彼らは高度な技術を持ちながらも伝統的で素朴な暮らしを愛し、悲しい時には仲間と共に泣く思いやりの心を持っている種族だった。憎しみによって他者を害するような価値観は彼らが良しとするものでは無かったはずである。『眼』への強すぎる恐怖が彼らの精神性を変質させてしまったのだ。

一族が昔からこうだったわけじゃない。いつもそんなに怖がっていたわけじゃないんだ。
(My kind weren’t always like this. We weren’t always so afraid.)

引用:囚人(エンディングより)

彼らが元々持っていた保守的な傾向は更に強くなり、不変への執着に変化した。そもそも流れ者住人には「捨てること」「失うこと」を忌避する性質があった。なにしろ彼らは別の星系に旅立つ時に母星から川を持っていくような種族である。前述の仮説が正しいなら、彼らは「もう帰れない」という覚悟をしていたからこそ、故郷の(出来る限りの)全てを持ち運びたいと思ってその選択をしたのだろう。スライドリールに様々な記録を保存する習慣があったのも、彼らに過去や思い出を失いたくないと思う価値観があったからだ。記録を大切にするのは知的生命体の嗜みなので少々こじつけ的ではあるが、流れ者住人が記録や保存を重視する種族であったことは特に疑いの余地はないだろう。

これ以上大切なものを捨てたくない、失いたくない。彼らが持っていた性質は恐れに変わり、失うことへの恐れがその後の彼らの行動を決定付けることになった。

ついでに、DLCの攻略上にもホラー調のターンがあったのはプレイヤーにも恐怖の恐ろしさを体感してもらう必要があったからだと筆者は解釈しました。元はハロウィン向けのDLCだったというのも大きいのだろうが、ホラー要素抜きで恐怖についての物語を語るのは怪談を報告書にされたのを読むようなものでいまいち説得力に欠ける。形は違えど、住人たちが味わった恐怖の感情の一端を味わってもらおうという制作者の粋な計らいである。なんて迷惑 ありがたいんだ。

不変・不死・不滅

彼らの精神性は流れ者の随所に見られる円環のモチーフにも現れている。環状天体である流れ者、スライドリールの輪、回転するドアの開閉機構、模擬現実の円環構造…とにかく様々な場所で円や回転といったモチーフが用いられている。地球人類の文化では円形は永遠永続性を象徴するものであるとされている。流れ者の文化にもそういう概念があったかは不明だが、永遠に循環する川なんて特に直球に象徴的である(宇宙はいつか終わるので真の永遠ではないというのは置いておいて)。

しかし流れ者にも永遠や不変性を尊ぶ価値観があった仮定しても、種族そのものが本気で不老不死とかを求めようとしていたのではないだろう。だが彼らが『眼』の正体を知ってしまってからは事情は変わった。永遠どころか、住人たちは絶滅の危機に瀕しているのだ。しかも美しい故郷で静かにその時を迎えようとしていた時とは違い、当時は一度希望を与えられてからどん底に突き落とされた状態にあった。

故郷を犠牲にして『眼』を目指したことは大きな過ちとして種族全体のトラウマになり、彼らの精神に深く刻み込まれた。それによって、彼らにまた別の恐れが生まれた。過ちを暴かれる恐怖である。住人は『眼』に裏切られたあと怒りに任せて『眼』の神殿を焼き、その後スライドリールをも焼き払った。どちらも「焼いた」のは同じだが、よく考えると行動としてはあまり繋がりがない。しかも、ほとんどのスライドリールは完全に焼き払ったが、それ以外のものはスライドの一部分だけを焼き焦がして(火炎放射器でやったのなら相当器用である)リール全体は残している。その行動にはどんな意図があったのか。

住人の居住区にはどの場所にもスライドリールを鑑賞するための施設があった。娯楽あるいは純粋な記録目的のメディアとして広く普及していたのは明らかだが、だからこそ彼らがスライドリールを処分したのは不可解に映る。大切な記録、思い出、重要な映像も多数あったに違いない。それらを焼き捨てるのは、彼らの過去を捨てるのに等しい行為ではないのか。

しかし当時の彼らは「過ちを犯した過去を捨て去ってしまいたい」と思い詰めるほどの精神状態にあった。美しかった過去と先のない未来との板挟みになり、もはやどこへも行くことは叶わない。結局のところ住人は彼らにとって心地よい別の現実を作り出し、そちらで生きることを選択した。古い現実に残る過去は、彼らにとって誰にも知られたくない隠したい過去に変わった。流れ者をクローキングフィールドの中に隠したのと同じく、何者にも見つけて欲しくないという感情がスライドリールを処分させたのではないか。こうして現実には、彼らが特別に残したい・残すべきだと思った記録だけが残されたのだ。

この心理的な事情が端的に現れているのが遺物実験のスライドリールである。実験で事故を起こして死者を出した過ちは隠したいが、かつてその人が存在した記憶までは失いたくない。矛盾するようで切実な思いがあのスライドリールには込められている気がする。

…と想像してみたのはいいものの、正直に言って住人の行動原理には合理的な理由だけでなく感情的な動機も強く働いているため、彼らの意思や決断を「ああだからこうだ」と断定するのは非常に難しい。それでも住人たちの動機がなんとなくでも理解できるような気がするのは、彼らがあまりに人間的な種族だからではないでしょうか。少なくとも感情の面においては流れ者住人はOuter Wildsの世界で最も地球人類に近い種族だと思います。目の数も手の指の本数も同じだし。技術力の設定も、ワープ的な超技術ではなく太陽帆や鎖で上下するエレベーターなどの比較的現実的な技術が当てられているのは意図的なセレクトなんじゃないでしょうか。Nomaiも人間的といえば非常に人間的だが生き様がクレイジーすぎる面があるので…。「眼を探すのに太陽を爆発させようぜ!」と言われて「それいいね!」と答えられる自信は無い。そこに行くとHearthianの安心感はすごい。大人も子供も変人揃いであるところだけは油断ができないが。

死者に花を手向ける習慣もあったのだろうか

今回は流れ者住人の精神性と彼らの行動原理について、筆者の大体の考えをまとめました。次の記事では彼らが悲劇の道に足を踏み入れる原因になったあの技術について書きます。次回に続く


スクリーンショット引用:
Mobius Digital 『Outer Wilds』(2019)
DLC『Echoes of the Eye』(2021)

メモ:ファンサイトでの初出一覧(一部):


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