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影踏みの日々と、お陰様で

僕らの【日常】は、もっともっと美しいはずだ。

・・・こんな確信を持って、毎日写真を撮り続けてみたけれど、実のところ、決してそんなことはなかった。

たしかに、ゴージャスな光景を目にする瞬間は多々あった。

だけどそれは刹那的で、日常は、 日の当たらないことばかり。

毎日、影踏みの連続だ。

週末に友達やパートナーと楽しい時間を過ごして、非日常という光に照らされたとしても、日の当たらない"陰り"の時間が、日常にやって来る。

非日常的で楽しかったあの記憶が、背後から光線のように差してきて、自身の目の前に影を落としてしまう。

前に進もうとしても、自らの影を踏んでしまい、その"陰り"に呑み込まれそうになることも、しばしば。

その度、背後に煌めく栄光を振り返るばかりで、目の前に広がっているはずの『日向』から目を背け、日陰で落ち着こうとしてしまう。

『日向』は眩しすぎて目を背けたくもなるけれど、光に目を向けている間は自身の背後に影ができるから、前に歩み続ければ自分の影を踏まずに済む…にもかかわらず。

そうして背後にできた暗い影には、当然のように"陰り"も宿る。

けれど、その影を踏むのは自分ではなく、後ろからついてきてくれた"誰か"だ。そこには意味合いが生まれる。

だからこそ、"陰り"は誰かの心を休める『日陰』になりうるし、自分からできた影が、まるで月の影のように、側にいてくれる人を照らすかもしれない。

「陰」は「光の当たらない場所」という意味だけれど、「影」は「光や形」の意味もあるからだ。

ところで、自身の影を踏めば陰りに浸ってしまうけれど、他者の影を踏み、様々な"陰り"を知ることで、『お陰様』の気持ちが芽生えるのかもしれない。

日に向かって歩みを進めるためには、日陰の存在が必要だ。

ただし、自分自身の影を踏むのではなく、日向にいる人の後ろにお供して、影を踏み、その陰りに浸り、お陰様の有り難さを享受したい。

日向で心を温めながら、日陰の恵みに感謝を忘れずに。

自らの道を進みながら、時には身を委ね、己を明け渡し、お供することも忘れずに。

光浴びるような道だけでなく、お陰様に有り難さを抱ける道を。

美しさとは、日向だけでなく日陰にも潜んでいるのかもしれない。

"陰り"が色気や恵みを滲み出す瞬間を、大切に。

・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

愛と倫理と、ときたま浪漫を。

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唐澤俊和
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