この人に撮ってもらった写真に写る自分は好きという気持ち
僕は昔から、人目を引いたり、注目を浴びることが大の苦手だ。
いざそういった機会がやって来た際には、平然としているように見えるかもしれないけれど、身体中がアツくなって、火傷の傷跡が疼くのを感じる。
子どもの頃から、上半身裸になる度に周りから奇異な目で見られていたことを、必死に隠そうとして自分をさらけ出せずにいた、あの頃に抱いた心の揺らぎを、忘れられないのだと思う。
そして実は、写真を撮られるのも好きじゃない。
鏡で見た時の自分と、写真に写った時の自分があまりにも違うという事実に、未だ慣れることができない。
自分が普段見ている自分の姿と、周りから見えている自分の姿。それらがすれ違ってしまうことが、すごく怖いんだ。
自分のことを知ってほしいし、もっと見てほしいと思いつつも、ピントを合わせられるとたじろいでしまうという、何ともあやふやな自分がいる。
ただし最近では、そうした心境に変化も感じている。
それは…
「この人に撮ってもらった写真に写る自分は、好きだなぁ」と、そう思える相手がいるということだ。
自分を大切にするためには、他者との距離を空けることが必要な時もある。
だけどもっと大事なことは、まずは適切な距離を取ってから、改めて自らの意思で相手に近づこうとすることであり、互いの間に立ちはだかる、何だかあやふやな空気感を水に流すことだと思う。
自分の嫌いな部分や受け入れられない部分を、自分だけの力で愛するのは、難しい。
だからこそ僕らには、他者を愛する力が備わっているのかもしれない。
きっと他者を愛するということは、「自分のことを愛してほしい!」という我欲から解き放たれてはじめて、なし得るもの。
そうして自分の中から生み出された愛は、相手の中に染み渡り、いずれ外側へと滲み出でいく。
その時にはじめて、その愛は僕たちのものとなり、自分の中にも自然と染み込んでくるはずだ。
その瞬間が訪れるその日まで、心豊かに、温かさを巡らせていきたいと思う。
・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)
━━━━━━━━━━━━━━━
【軟水のたそがれ】
━━━━━━━━━━━━━━━
このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!
新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!
ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい
⇓先週のたそがれ!