言葉でつうじ合えないモノとどう生きてゆくか
突然ですが、馬と対談してきました。
対談…とは少し違うかもしれませんが…
先日、山下勉さん(べんさん)が運営する淡路島のシェアホースアイランドにて「尼僧酒場」ならぬ「尼僧酒馬」の配信を行いました。
もうもはや尼僧酒場の型がなさすぎてなんなのかよくわからなくなっていますが、わたしが好きな人たちとわたしの興味のあることをただただ喋りたいというエゴでしかないプロジェクトで進めております。
べんさんは「くらしに馬を」のコンセプトのもと馬との暮らしをつくっています。
今回、べんさんのクラウドファンディング企画「馬と共生する「秘密基地」を!〜いま・ここを大切にする場づくり〜」の応援としてべんさんとファシリテーターの青木将幸さんと配信型のトークセッションという名の唐溪が今感じていることをただただ配信する会を設けていただきました。
そもそもわたしは馬が好きすぎる。
どっしりとしていながらも凛としたたたずまい。大きくて存在感があるのにいつもやさしさを醸し出している。とても美しい生き物だなあと思う。
馬は人と森の間にたつ存在なのではと感じている。
人は他の生物には見られないほどの社会性を進化の過程で獲得し、「こころ」を共有するすべを見出した。それが言語や文化の発展につながっていると人類学者の長谷川眞理子さんの記事をよんだことがある。
言葉は、あなたと関係を築いていきたいという想いのもと生み出されたツールだと思っている。しかし、自らの出した言葉によって囚われてしまったり、そこに乗せられなかった想いがなかったことになってしまったり、言葉というツールが先行してしまい「想い」が置き去りになっていないかと感じる。
ヒトはヒトを傷つける言葉を発する。
だけどその裏側には、傷つけられるのではないかという恐れを含んでいることがある。
だからといって傷つけてもよい理由なんてないし、悪気がないから謝らなくてよいなどとは決して思わないのだけれど、想いをはせることで言葉の受け取り方や関係性はかえられるのではないかと思う。
すこし脱線してしまったが、馬がとても好きだという話をした。
わたしは小さいころから動物や自然が好きで、触れてきたから大切にしたいと思っているのだと思っていたが最近その感情が少しクリアになってきた。
自然が与えてくれる様々な美しい景色に、心が動く瞬間がある。
虫の模様や夕暮れの空が移り変わっていく様子、その自然の流れの一部に自分がいていろいろなものに影響を受けながら生かされているんだなあと思うと大切にしたいと思うものが増えて、豊かな人生だなと感じる。
今日も幸せだったなと。
自分が理解できないもの、よくわからいものは怖いし距離を置きたくなってしまう。
自然に触れたことがないと、虫は指すし気持ちが悪いし森にはどんな生き物がいるかわかったもんじゃないと恐ろしくなってしまう。
自然から美しさを感じる前に、恐怖が先行してしまって遠ざけるということも少なからずあると思っている。
しかし、人と共生してきた馬に自然との間にたってもらうことで、モノ言わぬものに対しての恐怖や相手は攻撃してくるものではないという安心を感じてもらうきっかけになるのではないかと思っている。
言葉でつうじ合えないモノをどう大切にできるのか。
馬や自然だけでなく、言語の異なる人、同じ言葉でも理解しあえない人
そんないろいろなモノとともに生きてゆきたい。
大切だなと感じる瞬間をひとつひとつ見つめてゆきたい。
共通言語でないから、目で見えないからわからない。
わからないけれど、共に生きたいという想いこそが
想いをはせるきっかけに繋がっていくのではないかと思う。
アーカイブはこちら「尼僧酒馬~競走馬と考える役割~」
左:山下勉さん 右:青木将幸さん 馬:アネロワ 写真:天崎仁紹
ありがとうございました。