形有るものが失くなるように、形無いものも、やっぱり失くなってしまう。#307
「なんで大事な卒業アルバムを、捨ててきたの!」
と、中学校の卒業式の帰り道、川に卒業アルバムを捨ててきた息子に、母親がひとしきり怒り続けた後、少し泣いていた。そうか、あれは大事な物だったのかって、そのときにやっと気づいた。
テレビで、
「物が、どうしても捨てられないんです!」
なんて話を聞くたびに、なぜなんだろう?と不思議に思っていた。捨てればいいのに、また買えばいいのに、と。
自分がいくらでも気にせず物を捨てられることを、
「形あるものは、いずれ失くなるのだから。」
なんて、それっぽい言葉で片付けて、散らかさないようにしてきた。でも、最近その先にも気づいてきた。ぼくは
「形のない思い出も、まあまあすぐ捨てられる。」
ということ。これは、コロナの影響によって気づいたこともある。コロナがはじまって、そして先日、緊急事態宣言が解除された。
「少しずつ、元の生活に戻れる。」
なんて期待もあるのかもしれないけれど、自分は違う。
どちらかというと、もう戻れないところまで、世界が変わっていってほしい。形のない過去の記憶や風習も、全部忘れ去ってしまえるところまで、いけたらいい。そして、新しい生活に、踏み込めたらいい。
オンラインのやり取りが主流になって、家にいる時間が長くなり、ほんとうに大切な人や、ほんとうに大切なできごとをみんなで共有する。それはそれで、いずれくる未来を先回りして、体験させてもらっているようにも思える。
ぼくはなんであの時、いとも簡単に卒業アルバムを捨てたんだろう?と記憶を辿ってみた。
それはきっと、何度か転校を繰り返していくなかで、過去の友だちは、自分のことを忘れてしまうし、それ以上に自分も、過去の友だちを忘れてしまうんだという、どうしようもない自分の不甲斐なさに、気づいていたからなんだと思う。
形ないものは失くなるけれど、形あるものも、やっぱり失くなってしまう。形があるかないかは、あんまり重要じゃないらしい。形があろうがなかろうが、それでも忘れられないことだけ、残っていったりする。
読んでくれたかた、ありがとうございます。だいたいの記憶は忘れてしまうけれど、忘れなかったことだけ、ちゃんと大事にできたなら。