「正論」から出発して、アンコンシャス・バイアスに取り組む方ほどそうでない方から迷惑をかけられる可能性への対処を考察した件
タルイタケシさんはじめまして。有料部分をまだ拝読していないので、内容がずれたり、被ったら申し訳ありません。
「それは正論なんだけど」と受け入れられないケースを考えると、例えば極端に単純化して一面的だから参考にならないとか、机上の空論のように実現することが困難な時、そして感情的な問題を考慮に入れないと、受け入れられないように思います。
同じ日本語圏でも文化が異なることも多いです。企業文化もあれば、趣味のジャンルの仲間との文化など。また、言語や地域が異なれば文化の問題はより大きな要因になりますね。例えばお辞儀する文化もあれば、握手する文化もあります。
また、「説得」を含むから、揉めることもあります。正しいから行ってと伝えると説得や押し付けになりかねません。「正論」が正しいのであれば、相手に判断材料を手渡して検証して貰うと押し付けの問題を回避できます。
なぜ回避出来るかの一因は主観にあります。我々は事実を関係性や文脈などで組み立てて解釈して、真実や正しさや物語として理解します。事実と意見を組み合わせた判断材料を手渡すことで、その人がどう解釈したのか確認出来ます。対して、正しい・正しくないをどのくらい強く信じているかを説明しても、「何かを信じている方がいる」ことしか検証出来ないはずです。
この主観の問題が、無意識の思い込み、アンコンシャス・バイアスとも関係しますね。職場と性別の例でしたが、丁寧に説明している動画だと感じたので、このnoteをご覧の皆様へ共有します。
こう表現するとナンセンスだと理解できますが、無意識に自分の立場や価値観から、相手の価値観を否定する時は、この構造だと思います。
また、自分の価値観を疑わないため、無意識に前提にするため、その前提を共有出来ないとイラっとします。これは自分の価値観を疑って共有出来ない部分を探したり、相手の価値観を理解しようとする労力を払っていないとも言えます。
つまり、偏見の問題の矛盾は、自分の価値観を疑い相手の価値観を理解しようと努力する人の方が、努力を怠ったりそもそも自覚できない人から理不尽な思いをさせられる可能性がある点です。
タルイタケシさんが書いて下さったnoteから出発して、我々の日常に起きる理不尽なことに行き当たりました。
私は、理性があると苦しい・苦しくないという問題に見えます。自分の価値観を疑い他者の価値観を理解しようとする方が、そうでない方に迷惑をかけられることは理不尽です。だからと言って、理性を弱めて物事を見えにくくすることもナンセンスです。
アンコンシャス・バイアスへの取り組みを行わずに、その問題に努力をしている他者へ迷惑をかける自由は、自由の逸脱ですよね。お互いに相手の自由を侵害しないようにする目安が公共の福祉だから。けれど、取り組み方が分からない、前提を疑えない、必要を感じていないなど、様々な理由で行わない・行えない人々を「正論」で説得しようとしても、あまり意味はないと思うのです。一つは、我々は教えられるより自分で気がつきたい傾向があるからです。(逆に、カルトのリーダーなどから複雑なことは全て決めてもらいたい傾向もあるから、人は複雑ですね)
なら、どうしたらいいのでしょうか?
事実と意見を組み合わせて、その方が検証可能な状態にして、自分の考えを書き残し共有することが、私には意味があると思えるのです。
もちろん「正論」を議論するのも有意義だけど、前提のすり合わせでもある、お互いの価値観の確認を済ませておけば合理的ですよね。
自分の考えを言葉にするきっかけに感謝します。
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