美術の根源、体験の共有の一考察
月が綺麗だからスマホで撮影しても、目で見たようには撮れなくて、共有出来なかった経験はありませんか。そこから、目で見たように撮るには何が必要か、カメラを学ぶ道もあるし、カメラの代わりに言葉で描写する方法もあります。
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「あのあれ」を誰かと共有することを、述べます。体験を共有することは、おそらく我々の根源的な欲求です。
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金沢21世紀美術館館長でキュレーターの長谷川 祐子氏は、アートの起源としてアルタミラ洞窟壁画を挙げます。
1.8万から1万年前の壁画が、現存する最古の壁画です。けれど、3歳くらいの幼い子は、例えばどんぐりや落ち葉など、何でもないものを、自信を持って「あい」と手渡してきます。あれは、発見の共有でしょう。
大人になって出来ることは増えても、「あのあれ」、例えば、冒頭で例に出した月を、隣にいてくれたら指差すだけで済むけれど、共有したい相手は違う国にいるかもしれない。写真に撮るか、言葉で描写するか、あるいはイラストを描くか。ここにいない誰かに共有したくて、方法を模索することは、3歳の例と本質的には違いはないかもしれない。願いの持つ方向性は、おそらく共通。
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例えば、狩の経験を、視覚的に共有しようとして、洞窟壁画は描かれたのでしょう。長谷川氏が仰るように、描いた人に確認出来ないけれど。
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人が言葉を獲得したのは10万年前とされています。では、人が何かに感動することは、いつから始まったのでしょうか?
言葉を獲得する前も、群れで行動する以上、言葉未満ではあっても意思疎通の方法はあるはずだし、ボディーランゲージは機能したでしょう。
狩の帰りに月が美しかったことを、洞窟などの住居に帰って説明するには、言葉が必要です。だけど、隣を歩いている群れの仲間の肩を叩き、月を指差すことで、共有出来たのでは無いでしょうか。
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感動という体験
共有という行為
美術の根幹は、人の子どもや大人を観察しても、おおよそ同じことが言えます。3歳児が自信を持って手渡してくれる、紅葉した落ち葉やドングリは、アートの萌芽であり、おそらく言語を獲得していなかった時期の人類の祖先の心の働きと通じると思うのです。
アートは高額で難解で、美術史を学び、美術館の学芸員に解説してもらうことが必要なほど、複雑に発展しました。それは、文化と伝統ですから、豊かさです。
けれど、どんぐりや落ち葉を、自信を持って家族に手渡して、まるで報告という大仕事を果たしたかのような達成感を見せた、幼い人の様子から、我々は美術の本質を学ぶことが出来るのでは無いでしょうか。
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