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覚えて当たり前になってしまうけど。

「昔は、川で泳いだんだ」

夏休みに遊びに来た母方の祖父が、近所の小学校のプールの賑やかさに接して、こう話した。祖父が好きだ。彼の世代としては珍しく、花や景色に対して「美しいな」と自然に言葉が出る人だった。

残念ながら、私の育った町は、川はあっても泳げる川ではない。友達と遊びに行き、焼けた丸い石に触れたり、足を濡らす程度の関わりだった。

幼稚園の年長の私は、もう数カ月で小学校に上がると、張り切っていた。自分のノートに、ひらがな・カタカナ・漢字等を書き写して、予習に余念がない。

一緒にこたつに入っていた父が、「そこ、鏡文字だぞ」と声をかけてくれた。幼稚園児なりに、自分の父が大学という場所で先生をしていることは知っていた。

「お父さんすごいね、先生だから分かるんだね」と、キラッキラの眼差しで、最大限の尊敬を伝えた。父は、少し困惑して照れくさそうだった。

「いや、俺の専門と関係ないし、誰でも分かることなんだが、息子は尊敬しているので否定することもないし」みたいな感じだったことを理解するには、もう数年必要だった。

幼い自分を思い出すと、不思議と猫の行動に重なることがある。

爪とぎのこと。我が家では爪とぎを与え、教え、壁で爪とぎをしないでと躾けた。だが、布クロスの壁紙の方が、爪とぎより感触がいいらしい。

猫が後足で背伸びして、前足が届く範囲まで、びっちりとモッコモコに壁を耕された。私達家族が猫に根負けした形だ。バリンバリンと爪を研ぎ、くるっと振り向く。キラッキラの眼差しで。

「いっしょに研ぐ?」とでもいいたげな顔で。鏡文字の思い出で、父を見上げた私の目は、猫のこの瞳と似ていたかもしれない。

鏡文字の思い出の頃、時計の読み方も練習した。時間の概念は分かる。数字も読める。だからデジタル時計で十分だと、園児なりに思った。アナログ時計が不合理に思えた。

覚えてしまえば、そんなことすっかり忘れて、アナログ時計を使っていた。校庭の一番端からでも体育館のアナログ時計は読めるし、退屈な授業で何度も時計を見上げたりした。

電話も初めての思い出がある。母が親戚に用事がある時に、電話をかけて名乗る練習をさせてくれた。私の親族は、「地名+誰それ」とか、いとこ同士なら「下の名前+兄ちゃん/姉ちゃん・くん・ちゃん」と呼び合っていた。呼び捨てもある。

「もしもし、『名字』です」と私が名乗ると、伯母が電話を取った。声で誰か分かってくれたらしい。改まって話す様子を、可愛らしく感じてくれたのかもしれない。

「はい、『名字』です」と、応答してくれた。父の兄の妻だから、名字が同じであっても不思議はない。でも、私にはカルチャーショックだった。

(え、『名字』は僕なんだけど、おばちゃんも、あれ?)

初めての電話は、「名字」の概念を意識させてくれた。

鏡文字を書かなくなった。アナログ時計も読める。電話も不自由なく使っている。どれも、もう「初めて」ではなくなった。親戚と名字が同じでも、驚いたりしない。

だからこそ、いろんなものが新しくて初めてだったあの頃の、感受性を忘れたくない。そして、出来るなら、母方の祖父のように「美しいな」と言える人でいたい。

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