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おじいちゃんの渋い部屋と、よく冷えた炭酸飲料

炭酸飲料は、私にとって、人を喜ばせることが好きだった、祖父の不器用な愛の象徴です。一杯の冷たい炭酸に込められた祖父の思いは、時を経てもなお鮮明に私の心と共にあります。

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時は昭和、1980年代、東京の下町。まだコンビニは少なく、飲み物は酒屋さんが届けてくれた頃の話です。三ツ矢サイダー、カルピスなど、大人用の茶色いビール瓶と共に、届けてもらうのが嬉しかったものです。

エアコンはまだ普及しておらず、扇風機がカタカタと回る、清潔に手入れをされた祖父の家の居間。その部屋の主、祖父は大正の終わりの人で、私が40代後半。年が離れているのは、うちは母が末っ子で晩婚だからです。

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あの時代を生き抜いた人々は、それぞれの苦労がありました。祖父は長男ではないので土地を相続出来ないから、教育を受けさせる。これが曽祖父の考えでした。戦前の不況により学校で学んだ農業とは異なり、お料理など様々な仕事を田舎から東京に出て身につけ、親戚の縁で満鉄で勤めました。戦後の抑留と引き揚げを経験し、妻を結核で失い、一人で子育てを決意しました。

十数年田舎で農業に従事し、その後、東京で工場の社員寮の三食を切り盛りするようになりました。多い時は100人を越える規模だから、最盛期は3人体制でした。母が中学生の頃の話ですから、もう60年以上前のこと。

東京の下町、寅さんの世界を想像してください。あの世界です。車を運転しない祖父は、自転車で新鮮な食材を運び、業務用の大きなお鍋でコトコトお料理します。

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祖父にとって、炭酸飲料は特別な存在でした。
彼の感覚では、本当にものがない時代を過ごしているので、甘いものは貴重なのです。まして炭酸飲料は、甘く清涼感があり冷たい。田舎でトマトやきゅうりを冷やすのとは、また違った冷たさです。

あの頃は、エアコンではなく、扇風機で過ごせました。夏のコントラストの高い強い日差しの下で、小さな子ども用の帽子をかぶって祖父の家へ訪れる1980年代。「遠くからよく来た。これでも飲みなさい」と、キンキンに冷やした炭酸飲料を嬉しそうに出してくれました。

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当時の私には理解できなかった祖父の気持ち。40代半ばを過ぎた今、想像できます。

祖父にとって、末娘の夫婦の子である、孫の私は可愛いわけです。夏休みに暑い中、自分のところまで神奈川県から車に乗って、あるいは電車で、はるばる遊びに来た。喜ばせてやりたい。冷蔵庫で炭酸は冷やしてある。そんな、祖父の思いが、炭酸飲料に込められています。

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美味しい、嬉しいだけでなく、そのコップ一杯に込めてくれた私の祖父の思いや、彼の生き方が、象徴的なものとして思い出されるのです。今でも自分の家族と、「あの頃おじいちゃんの家に行くと」と話すと、「炭酸の話でしょ」と言われるくらい、私の祖父の思い出の重要なキーワードです。

幼い頃から現代まで、炭酸飲料は私の側にありました。そして今も、一杯の炭酸は、私の原風景を呼び起こします。1980年代、渋い和室、手入れの行き届いた年代物の机、窓の外の建物の距離感、その向こうに見える小さな空。

冷たい炭酸の泡は、無条件に注がれた祖父の愛の記憶と共にあります。

#炭酸が好き


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