見出し画像

あの頃、ぼくも少年だった。

保育園児達が3,4人の保育士さんに連れられて、小さな手を繋ぎあって引率されていく。真新しい青い水筒が嬉しいらしく、男性保育士さんに「見て見て」と列から離れ見せにいく自由な子もいる。保育士さん、秒でキャッチして、引率されている。目指すは公園。

私が幼い頃、帽子といえば赤白帽だった。なんならランドセルは赤黒で、性別により自動で決定だった。2択ですらない。女子はブルマの時代。昭和の小学生。
今の子達は、パステルカラーの帽子もあれば、首筋を日差しから守るデザインもある。大変良いこと。

私が育った時代は、さすがに肥満していることを健康優良児と呼びはしなかったけど(私が団塊Jr.の終わりの方なので、団塊の世代から聞いて知ってる)、男の子だろうと女の子だろうと、日焼けする子は真っ黒に焼いてたし、真夏でも扇風機だし、外で遊ぶことを止められたりしなかった。走る時、水を飲むなの時代。よく熱中症にならなかったものだ。熱中症関係なく、校長先生の話が長くて倒れる女の子はいた。ねえ先生、1分で話そう?

当時も熱射病の知識はあったけど、体温を越えるような猛暑はなかった。若い方に通じるだろうか。部屋に吊るす蚊帳ってあって、最悪なのは中に蚊が入ること。聖域がいっきに狩場に変貌し、蚊帳の意味を失う。夏といえば、蚊帳つって、岩波少年文庫の『西遊記』を読むのが私の風物詩だった。

真夏の熱帯夜でも、エアコンも扇風機も無しで眠れたのだから、やっぱ現代と気候違いますね。ゲリラ豪雨なかったもん。スコールは外国で降るって習った。

だいたいエアコンも、室外機がある現代によく見かけるタイプじゃなくて、窓にすぽっと設置するタイプだった。父が操作してたから使い方もわからないけど、あれ、窓にどう設置したんだろう。構造が謎。

時代は変わる。真夏じゃなくても、すでに暑い。だから、保育園児達に熱中症対策が行き届いてて、おじさんは勝手に安心している。保育園児達は、ハイテク?な帽子に慣れてそれが日常なので、だるまさんがころんだに集中している。

幼稚園で色んな遊びをしたけれど、園庭にある木には片っ端から登ったし、桜の大きな木の枝が座り心地いいし眺めもよくて好きだった。トトロっぽい光景だと思う。並んでオカリナ吹きたい。もちろん、トトロどころかナウシカも発表されてない時代だ。宮崎駿監督の中に構想はきっとあった。はず。

お弁当のある幼稚園だったから、お昼の前後はお弁当箱が台車?コンテナ?みたいのに積まれてたのを見た記憶があるのだけど、何で周りにお友達いないのだろう。トイレの行き帰りかな?

家では本を読むか、油粘土で遊ぶかでした。紙粘土ではなく油粘土って、今の人に通じるだろうか。大人になって振り返ると、あれは箱庭で、言葉を十分に獲得してないからこそ楽しかったのかもしれない。成長するにつれ、本が読めるようになるし言葉に出来るようになるから、油粘土で遊ばなくなった。

身長1mかそこらだった時代なので、幼稚園の先生達(たぶん20代の女性)は自分より大きいし、幼稚園の天井は高いのだけど、子供の目線だからだろう。年齢考えたら、お孫さんいる世代だ。マジか!先生、教え子の中では永遠に20代です……。

幼稚園であれ、その後の学校であれ、恩師って同窓会などで再会しないと歳を取らない。初恋の人とかと、同じで。

(ところで皆さん、初恋の人って何人います?幼稚園・小学校低学年・小学校高学年・中学・高校と振り返って、どれが初恋かいまだに決めかねてます)

恩師。名前忘れちゃったけど、1年生の担任だったと思われる先生が、いもとようこさんが絵を担当された『てぶくろをかいに』を授業で読んでくれて、親に頼んで買って貰った記憶がある。いまだに持ってる。

「あの本がどうしても欲しい」と、きちんと認識したのは、おそらくこの本。もちろん、書店で選んだ経験はあるけど、焦がれたのは初めて。


えー、こほん。ですます調にしたくなりました。
する。

小学一年に上がって数ヶ月した頃、歩いて通った幼稚園へ、子供用自転車で出かけたことがあります。たった数ヶ月なのに環境が変わったこと、園児ではなく卒業して小学生に立ち場が変化したこと、立ち場が変化すれば関係性も変わること。7つの私はまだ言語化出来なかったけど、懐かしさや先述したような意味での感慨を抱いたのでしょう。

自転車は行動範囲を広がることの原体験ですね。ジャニーズはまだSMAPが出てきてなくて、光GENJIの時代だったはず。興味なくて、クラスの女子が盛り上がってるのを眺めてた。
でも、ローラースケートははいた。

私は光GENJIの影響を受けてないけど、子供達に流行った理由は光GENJIだと思う。

転ばずに走れるようになると、友達の自転車の荷台につかまらせてもらい、牽引される遊びを覚えました。スピード出すと、ローラースケートうるさいんですよね。近所のお兄さんに「うるせえ」って怒鳴られました。
その節は、うるさくしてごめんなさい。

怪我や事故を経験せずに済んだし、おおらかな時代だったのでしょう。自転車の2人乗り禁止されるはるか前のことですし。80年代。

一輪車も流行りました。バックとか、その場にとどまるとか、出来る子いないし概念がなくて、単に自転車同様乗って走れればOKたったので、学校でも乗ったし、家でも一輪車乗って友達の家に遊びに行ったりしてました。今考えると、珍しい光景だけど、あの頃は日常だった。

父方の親戚に、2つ年上の従兄弟がいました。彼も私も長男だから、兄のように関わってくれた、一番近しい親族でした。

従兄弟が帰ってくるのを待つ間、キャラを育て切ってやたら賢者の多いパーティを連れて、時間潰しにドラクエⅢで遊んでた思い出があります。

とびっきりの最高のとっておきなんだってテンションで、従兄弟が中学で覚えてきたブルーハーツのリンダリンダを真剣に聴いたこと。

父が夭折して、お互い子供だから言葉を探しても言葉が見つからなかったこと。父方の親族との絶縁の原因は、彼のお母さん(父の妹。私の叔母)が筆頭になって、私の父が死んだ原因は私の母だと騒動を起こしたから。

絶縁する際に、「お母さんに口きくなって言われたのか」と尋ねられて、2人でよく出入りした本屋さんで、黙って頷いたこと。振り返れば、大人になろうと目一杯背伸びを始めたあの頃の、12歳で従兄弟に頷いた時に、のどかな少年時代を終えたのでしょう。ヤングケアラーなんて言葉なかったし。

兄代わりをしてくれた人だから、どこかで元気にしていて欲しい。絶縁しても、憎んでるわけじゃないから。
(当時の叔母の言動は、なんらかの精神疾患の急性期に似てる。親族の死って大きなストレスだし。だから、憎んではいないけど、離れるしかなかった


生まれ育った町の様々な場所に思い出があり、そこへ行けば今もあの頃の少年がいるよう気がしてならない。会いに行っても、絶対いないから、鉄壁のかくれんぼのようだ。

フラフープで遊んで、カランカランとプラ製品独特の軽い音を立てる少年が、耳の奥に住んでる。

いいなと思ったら応援しよう!

Trgr / カラストラガラ | モチベーションUP
ここまでお読み下さりありがとうございます。もし、良い点がございましたら、Twitter・Xでシェアして下さると嬉しいです。