日記の意義
今夜も夜が更けてきましたね。
こんな風に日記のようなものを書いていて気付いたことがありました。
なぜ昔と違って、こうして書き物をしていることを有意義に感じるのか。
話は変わりますけど、よく、今と昔だと時間の流れる速さが違う感じがするって話がありますよね。
からすさんは、それを液体の粘性と同じだと思っているんです。
昔は経験一つ一つが全て新しい事で、それぞれが記憶の網に引っかかるんですよね。
そうして、記憶の中にその経験っていう粒子の密度が高くなっていけば高くなっていくほど、時間は流動性を失って、流れが遅くなっていくのだと思っています。
でも、それを何度も経験しているうちにその粒子が新鮮味を失って、干からびて小さくなっていってしまう内に、記憶の網にひっかからなくなり留まらなくなってきてしまうと、密度が下がって流れが速くなる。
そういうものだと思っています。
話は戻りますが、じゃあ、なぜこんなにもこうして他愛もないお話を書き連ねているだけの行為がこんなにも有意義に感じるのか。
逆になぜ、幼いころはあんなにも魅力を感じなかったのか。
これに気付くと当たり前の話なんですよね。
既に記憶の網に引っかかっているものに、さらに網を掛ける。
そう考えると、今でこそ意味が無いとは思いませんが、幼い子からしてみれば、確かに意味を感じないだろうなと思いますよね。
そう考えたときに、今こうして今日のことを考えたり、何を書こうか考えたり、そういいうことをしている行為が、網にかかった記憶を捕まえる行為ではなくて、網の目を細かくする行為になっているのですよね。
昔と今で、日記の意義が変わっているんです。
それは確かに、新しい経験をしていないとか、それも確かにあるでしょうが、日々の経験全てが記憶に新しかった幼いころと比べれば、どれだけ積極的に新しいことを経験していても、網にかかる総量としては減っているはずです。
だからこそ今の私は、こうして、
網の目を細かく、記憶の粒をより深く追求する。
そういう行為に魅力を感じているのだと思います。
また、そうすることで、新しい経験を含めて、時間の密度があがる。
だからこそ、私は今こうして書き物をすることに意義を感じているのでしょうね。
幼いころと比べれば新しい経験の絶対数は確実に減っているのでしょうけど、今だからこそできることも増えているはずです。
どんな些細なことでも新しい経験をして、それを捉える網の目を細かくしてみれば、意外と時間はゆっくり進んでくれるかもしれません。
私のモットーでもある『のんびり楽しく』は、ゆっくりと進む時間の中でしかできないので、皆様も、
ゆっくりと進む時間の中で、のんびりと。
新しい経験に、楽しく。
日々をすごしましょうね。
明日もいい日になりますように。