今夜も夜が更けてきましたね。
むかーしむかしの、そのまたむかし。
からすさんも『普通』って何だろう? なんて思うことがあったんですよ。
多数的決定によって選択される普遍的な事象と行動。
ようは、割合的に多くの人がやっていることですよ、ってことですよね。
言葉にしてしまえば簡単で、考えるというほど思考しなくても思いつくようなものです。
事実、幼い幼い私もすぐに思いつきました。
なら、何が解らなかったのか。
それは単純に、そういう論理的な『普通』ではなくて、世間一般の方それぞれがいう『普通』が解らなかったのですよね。
意外と想像できないかもしれませんが『普通』って、実はひとそれぞれみんな違うのですよ。
でも、みんな口々に『普通』って言葉を使って、さもそれが多数的な選択だと信じですて止まないわけです。
幼いころの私は、あっちの『普通』、こっちの『普通』と、振り回されてばかりで、面倒くさくなった結果、結局他者に振り回されない唯一の個になったわけですが。
今でも正直なところ『普通』はあまり好きではありません。
普通の幸せ、普通の生き方、普通の経験、普通の……
他所様が言うのは一向に構いません。
だからどうということでもありませんからね。
でも、それをわたしに求められても困るのですよね。
だってそれはあくまであなたの『普通』であって、私は私だからあなたの『普通』で生きられるとは限りません。
何よりも、そもそもとして、私は私なりの『普通』を生きているつもりです。
あなたにはあなたの『普通』があるでしょうし、私には私の『普通』があります。
そして、その『普通』と『普通』の間には記号と音、そして当人の感覚としての言葉という以上の同一性はありません。
つまるところ『普通』と言ったところで、それがそこに含まれる情報をもとに感覚を作り出すものである以上、その方それぞれの持っている情報は千差万別ほぼ違うものなのですから、相手に伝わる可能性も大して高くないですし、あまり意味のある言葉ではないのですよね。
なので皆様も、自分の『普通』が他人の『普通』ではない、と思って使うと、少しだけ、言葉マイスターに近づけるかもしれませんよ?(笑
明日もいい日になりますように。
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