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映画『マイスモールランド』感想

場内が明るくなっても、しばらく立ち上がることができなかった。
そんな作品に出会ったのはいつぶりだろう・・・。

あ、ありました。
去年もありましたね。
足腰が弱くなっているのかもしれないな・・・。




正直言って、この作品が描いた切実さに対して、私みたいな人間がどういう立場で何を言葉にすればいいのか、まだよくわかりません。
今の私は社会問題に対してどうしようもなく無力で、そしてその無力さの根底にはもっとどうしようもない他者への無関心が横たわっている。
自分のことだけで精一杯といえば聞こえはいいですが、しかしだから”しょうがない”としているのは私自身に他ならず、”しょうがなくなんかない”と思ってなにか行動しなければ、私はいつまでたっても無関心な人のままです。
悪意がなければ悪い影響を及ぼさないという理屈が通用しないことは、この映画の中で何度も描かれていました。


そんな私の感想など正直どうでもよいので、それよりもまず先にもっと大事な話を。
この作品を受け取った人の中には自分に何ができるだろうかと考えた人も多いと思います。
その点について、川和田恵真監督がシネマカフェ主催のオンライントークイベントで話をされていたのでここに記載したいと思います。
川和田監督は以下の5つを挙げられていました。
①まずはこの現実を知り、そして忘れないこと
②日本語教室のボランティアとして参加すること
③Webを通じて署名活動などに参加すること
④Twitterで情報をシェアすること
⑤政治家に声を届けるなど政治に参加すること
⑤に関して、特に今秋再提出が予定されている入管法改正案は大きな焦点の一つとのことでした。
動画はYoutubeで公開されているのでぜひご覧いただければと思います。
⇨リンクはこちら


それでは、ここからは私の感想をば・・・。

先に断っておくと、私は無知です。
日本における難民の現状や政策に関する知識がない以上、フィクションとして描かれたこの作品が現実に照らし合わせてどうかということを語ることはできません。

けれどこの映画は、知識ではなく共感を入り口にすることを許してくれました。現実で起きている残酷な社会問題を扱いながらも、フィクションとして物語を紡ぐことで私のような人間にも居場所を与えてくれたのです。
そんな作品の在り方に敬意と感謝を。

そして何より、この映画は観たものの共感を呼ぶフィクションとして優れた描写にあふれていました。
驚くべきことです。
絶望的な現実を丹念に調べ上げ、その収集した事実に対する誠実さを失わないまま、物語として驚くほど高い完成度を誇っている。
そのバランスは奇跡的とさえ感じました。

私には涙する資格などないと後ろめたさに心を支配されそうになりながらも、素晴らしい描写の数々に惹き込まれずにはいられず、終盤は涙なしには見れませんでした。

無知で無力な私が、どういった描写に感動し心揺さぶられたか。
以下の感想では、そこを中心に書いています。

これまで私は無関心という断絶の壁を築き上げることに与してきました。
しかし、こうしてこの映画に向き合う時間を作ることで、壁に新たなレンガを積み足すその手をほんのひと時でも止めることができればと思いつつ・・・。


色彩

冒頭、サーリャが参加する親戚の結婚式はこの映画で最も色彩に富んでいました。色は個性であり、その多彩さは自由と寛容の象徴に思えました。
コンビニの店長はサーリャの手のひらの赤い模様を消すよう言いましが、聡太はその色が好きだと伝えたことで彼女と距離を縮めます。
二人はスプレーアートで彩り豊かな作品を一緒に作りました。そして、その豊かさは、弟ロビンのつくる小さな世界にも息づいていました。
それらの対極にあるのが、あの無機質な入管の面会室です。そこはいかなる色も許さないとばかりに灰色に塗りつぶされています。
やつれていく父マズルムもまたその圧力に屈したかに見えました。
しかし物語の終盤、帰国を選択する父の痛切な真意が明かされるのです。
サーリャとの面会、あの部屋の中で彼の服はくたびれていたけれど鮮やかな赤い色をしていました。


洗面所

鏡のある洗面所はサーリャにとって誰にも干渉されず自分に向き合うための空間だったように思います。窓から差し込む光の演出もとても美しく印象的でした。
朝、彼女は洗面所で髪にストレートアイロンを当てます。
女子高生のありふれた日常に見えるその光景も、実はクルド人としての個性を押し殺す行為であることがわかります。周囲に馴染みたい、みんなと同じになりたいという彼女自身の選択だとは思いますが、彼女にそう思わせたものを思うと、曲がったものを真っ直ぐにするその行為がどこか社会の同調圧力にも見えました。
そう感じたのは、彼女があまりに自分を偽ることに慣れすぎているようだったからです。
手の平の模様は美術の授業でつけたと言い、周囲に自分はドイツ人だと偽り、聡太と大阪に行けなくなったときも「行きたくなくなったから」と本心を隠しました。
かつてイジメにあっていた彼女が、苦肉の策として自分を偽ることを選んだであろうことは想像に難くありません。

終盤にかけて生活することすらままならなくなるにつれて、皮肉にも彼女の髪は本来の姿を取り戻していきました。まるで、ありのままの姿では居場所を見つけられないかのように。
そして最後に、改めてもう一度彼女が洗面所に佇むシーンで映画は幕を閉じます。そこでサーリャは、自分のありのままの姿を確かめるように鏡を睨んでいました。まるで、何かを決心したかのように。


川にかかる橋

サーリャは何度も河原にやってきます。
川は分断、国境を表し、そこにかかる橋は日本人とクルド人の間で揺れる、彼女の不安定なアイデンティティの在り方を象徴しているように見えました。

彼女は川の向こう側を見つめていました。
その視線の先にあるのは、彼女が幼い頃住んでいた場所であり、父が人生の大半を過ごした土地であり、さらにもっと言えばクルド人のこれまでの歩みまでもが射程に入っているようでした。
生まれてから5年しか住まなかった生まれ故郷のことを彼女はほとんど覚えていません。
しかし、だからこそ、否応なくあちら側に思いを馳せてしまうのではないでしょうか。自分の苦しみの根っこにあるもの。元凶ではないが原因になっているそれを、彼女はよく知らないのですから。

また、二世であり日本語もトルコ語も操る彼女は日本人とクルド人の間を取り持つことも望まれました。
彼女自身が橋であれと周囲から望まれ、強いられてきたのです。
そうして彼女のアイデンティティは引き裂かれた続けましたが、それを彼女は仕方がないと受け入れていました。自分のおかげで助かる人がいて、分断を回避できていることはたしかに事実です。
一方で、妹のアーリンは「サーリャがその役割を引き受けるから他のクルド人が日本語を覚えないのだ」と指摘しました。ある意味で、それも事実です。

しかし思い出してほしいのは、サーリャの小学校の先生が言っていたように、サーリャが日本語が話せるようになったのは、この国に馴染もうと歩み寄った彼女の努力の賜物だということです。
そう考えると、クルド人も日本人も関係なく周囲の人間が歩み寄る努力を放棄して、サーリャの努力に甘えているようにも思えます。
サーリャは努力の末に掴み取った力を武器に、学校の先生になるという夢を抱いています。にもかかわらず、彼女の未来に嫁になるという既定路線がひかれてしまっているというのはあまりに残酷です。


アーリンの存在

この映画で特にすごいと思ったのは、サーリャの家族を三姉弟としたところです。

まず、アーリンですが、彼女はサーリャと違い日本語を母語として身につけており、トルコ語は理解できません。
なので、上で書いた、他のクルド人がいつまでたっても日本語を覚えないという指摘は、「私はその努力をしたのに」という意味ではなく、「日本に歩み寄れ」という日本人としての感覚で発した言葉だと考えられます。ここだけ考えると、彼女はその振る舞いも相まって一見傲慢に映ります。

しかし、ここでもう一つ思い出してほしいシーンがあります。
序盤の食事のシーンなのですが、ここで彼女はトルコ語を話す父と姉に反発します。彼女は自分にわからない言葉で話されることに不快感を示していました。
家族が自分に理解できない言葉を話す。経験のない私には想像しづらいですが、彼女は家の中でずっと何か疎外感のようなものを感じてきたのではないでしょうか。
そしてまた、トルコ語はたしかに彼女を形作るルーツの一部であることは否定しきれません。にもかかわらず、自分はその言葉を解せない。その事実が、彼女の中に何か欠けた感覚を植え付けていると考えるのは妄想が過ぎるでしょうか。どうも彼女は、過剰にクルド人の要素を忌避しているようにも見えました。

またアーリンは14歳です。サーリャが5歳の時に日本に来たのだとすると、彼女はその時1歳か2歳です。
そこからアーリンが日本語だけを覚えたと考えると、日本にやってきたばかりのその頃に家族はこの国に馴染もうと必死に努力したのではないかと想像できます。
彼らは確かにこの国に歩み寄ろうとしたのです。
日本にきちんと馴染んだアーリンの存在は、そんな歩み寄りの証左なのではないでしょうか。そして、自分が不自由なく日本語を使える現状が、父と姉の努力によって支えられた事実だって認識しているはずです。だからこそ、彼女には彼女の葛藤があると思います。
そう考えると、彼女が姉に吐くあのセリフに、とても複雑な感情が湧いてこないでしょうか・・・。


ロビンの存在

次に弟のロビンです。
ロビンは口数が少ないですが、アーリン同様基本的には日本語しか話しません。一見、日本人であるという意識が強いようにも見えます。
ところが、彼は自分を宇宙人だと言って、自分が何者なのかがわからず苦しんでいるようでした。
その理由ははっきりとは描かれません。学校の先生はいじめではないと言い、原因が学校以外のところにある可能性を示唆していました。
上述したようにアーリンが日本語を母語とした背景に、この家族が日本に馴染もうとしていた努力を読み取るならば、来日から5年以上が経過したロビンが育った時期には、きっとこの国での生きづらさに直面し、不信感が募っていった頃ではないかと想像ができます。劇中ではマズルムがロビンにクルド語を教えるシーンもありました。
そんな不安定な空気の中で育ったことが、彼をアイデンティティクライシスに追い込んだ理由の一つなのではないでしょうか。

このように、三姉弟という設定にしたことで、クルド人と日本人の間で揺れるアイデンティティのグラデーションが、実に見事に表現されていました。そして同時に、家族のこれまでの歩みにも思いを馳せることができる。
あくまでサーリャの視点が中心にありつつ、アーリンとロビンの描写が控えめであるというそのバランスも含めて、本当にこの人物描写の塩梅が素晴らしかったです。

ラーメン屋

印象的なラーメン屋のシーンも、一見すすり音問題という日本人が想像しやすい外国人イメージを取り扱った微笑ましいシーンに見えて、実は家族の微妙な立場の違いが浮き彫りになるシーンでもあります。
マズルムとサーリャは音を立てない派、アーリンは立てる派、そしてロビンはその間で揺れています。
しかし、それは断絶を示してはいません。みんな笑って互いを受け入れました。
その在り方こそ、クルド人と日本人という異文化の共存の一つの形なのではないでしょうか。
サーリャが父との面会で目を閉じた時にこのシーンを思い出したのは、ただそれが穏やかな日常だったからではなく、家族が互いを受け入れて笑いあえた希望に満ちた瞬間だったからではないかと思います。
だからこそ、この面会シーンはあまりにも切なく苦しくやるせない・・・。
いやー、ほんとに・・・。
ちょっとこのシーンは何か異常なくらい胸に迫るものがありました。
今思い出しても鳥肌が立ち、涙が出そうになります。

オリーブの木

劇中、何度か家のベランダに植えられたオリーブの木が映ります。
終盤、父はトルコに住んでいた時にサーリャの誕生を記念して、それから毎年オリーブの木を1本植えていたことを教えてくれます。
父が水をやり、父がいなくなってからは、サーリャが、そしてロビンが水をやります。しかし、アーリンが水をやるシーンは描かれませんでした。
オリーブの木が持つ意味を考えると、彼女が水をやらなかったということにも何か意味を感じてしまいます。

悪意のない人々

この作品で描かれるサーリャを取り巻く人の中に明確な悪人は存在しません。(パパ活おじさん除く)
むしろ穏やかで思いやりのある優しい人が沢山出てきます。イジメがあることが会話の中では出てきますが描写はされません。
善良な人々を通して描かれるのは、偏見と無関心と疎外です。
日本語が上手だと褒める老婆
サーリャを首にした店長
がんばろうと励ます教師
外国人いじりをする同級生

悲痛な状況を強調したいだけなら、明確な悪意を持った人間を描いても良かったはずです。
そうしなかったのは、多くの人が彼らと似た性質を持っているからではないでしょうか。自分とは違う誰かではなく、間違いなく自分もその一部になりうる誰かがいた方が観た人の当事者意識は高まります。
この作品がより多くの人の胸に届くことが、ほんの少しでも社会全体の空気を変えていくことにつながるはずだという祈りを感じました。

聡太という希望と絶望

物語の前半で描かれたのは、難民の二世が揺れるアイデンティティの上で不安定な生き方をしていかなければならない、息苦しい日本社会の現実でした。
自分を偽っていくうちに何者かわからなくなる。彼ら彼女らは透明な嵐の中で生きています。
しかし同時に、周りの人間が彼らに向き合い受け入れる寛容さを持つ、そんな心のあり方によって解決の糸口をつかめるという希望も描かれました。
その希望が、聡太という存在に託されていました。
彼は私と同じように無知でありながら、しかし正面から向き合う姿勢を持ったことで、サーリャのありのままを引き出すことができました。

異なる文化圏の人間が共存するためには、時間をかけてお互いに向き合い知り合わなければならないということが聡太という人を通して描かれたのが前半だとすれば、後半では社会がその歩み寄りの時間も場所も人さえも奪っていく様子が描かれました。

そして、そのような社会制度を前にしては、聡太のような人間でさえどうしようもなく無力です。
何かしたくても、彼は無知で何をすればいいかわからない。もはやそこでは心のあり方だけでどうにかできる問題を超えてしまっています。(さらに絶望を深めるのは、誰より知っているはずの山中弁護士がやるせない無力感を漂わせていることなのですが・・・)

聡太が難民問題に関心を持ち、何かアクションを起こそうとする物語にしようと思えばできたはずです。
しかし、彼は自分の無知と無力さに打ちひしがれ、唯一思いついたのが金銭的な支援。それは皮肉にも、あのバイト先の店長がこれで縁切りとばかりに持たせた給料袋と似た様相を呈していました。
つまり、この作品ではあえて徹底してそこを描かなかったわけです。
もちろん第一には、手を差し伸べられる人がほとんどいないという絶望的な現実の活写であると思います。
そして同時に、見た人に消化不良感を与えることで、この問題について主体的に知ろうとする姿勢を促すという効果も生んでいました。無関心を貫いてきた私のような人間でさえも、何ができるのだろうかと考えざるを得なかったのですから。

マイスモールランド

物語が進むに連れ、サーリャの世界は見えない線に分断され、自分の一部を次々と剥奪され居場所を失っていきます。
隔てられ、区切られ、奪われ、引き裂かれ、それでも残る故郷。
それは心のなかにあるとマズルムは言いました。
誰が線を引こうと、行動を制約しようと、奪えない領域。
つまり、それこそがマイスモールランドなのだと。

深い言葉です。
しかし素直にその言葉に感動して良いのか迷いもあります。
私には当たり前のように自分の国があり、自分の出身地があり、自分の家があり、自分の部屋がある。それらが奪われ、失う感覚は正直想像がつきません。
マズルムの言葉を聞くと、帰る場所があるという当たり前の感覚を奪われた人間が、それでも前を向いて進むためにはそう考えざるをえなかった、という風にも聞こえるのです。
自分が何者かもわからなくなり、それでも今の自分を肯定するためには、そう信じるほかなかった。もはやそう考えなければ生きることすらままならないところまで追い込まれたと。
私が感じているのは彼らを見下した憐憫なのかもしれません。
ただ、やはりその言葉を彼らに口にさせてしまったものを思うと・・・この言葉をただ彼らの見識の深さだと称賛することにはためらいを覚えます。


名前のない人々

サーリャたち家族を実際のクルド人の方が演じられなかったのは、難民申請中の彼らが映画に出演するということが、彼らの未来に悪影響を及ぼしかねないという配慮からだったそうです。
エンドロールでは「姿や名前を出すことができなくてもこの映画に力を貸してくださった日本で暮らすクルド人の皆様」という文字が出てきます。
彼らがいることを知ってもらうための、彼ら自身の存在証明になるはずのこの映画の中でさえ、彼らは透明にされ名を残すことを許してもらえない。
絶望的な現実を知らず過ごしてきた己の無知と、どうすればいいかわからない己の無力さに苛まれながら見たエンドロールで、この文字はさらに追い打ちをかけるようなパンチ力がありました・・・。


フィクションへの祈り

最後に、この作品がドキュメンタリーではなくフィクションと言う形式を、それも極上のクオリティを誇るフィクションとして制作されたことに触れておきます。
現実で本当に助けを必要としている誰かの窮状を、その姿を捻じ曲げかねないフィクションというフィルターを通して映し出すことには危険も伴うと思います。この作品にもまったくそれがなかったとは言いません。

ただ、それでもこの映画がフィクションという形態を選んだことに、私はフィクションの持つ力への信頼、希望、そして祈りを感じ取りました。
現実の絶望を前にした時、フィクションは確かに無力です。
しかし、それでもフィクションは虚無だからこそ、そこに見た人が自分を投影して共感したり反発したりできる。
その心的活動を通じてこの映画を見た人々が自分を省みて、己の心のありようをほんの少しでも変えられれば、その連鎖が世界を変えることにつながっていく。

一つ一つはたとえ小さな一歩でも、きっとその先には光がある。

絶望の闇が色濃く立ちこめるこの作品において、そんな祈りを感じられたことに、私は深い感動を覚えたのでした。

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