劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト感想(~皆殺しのレヴュー)
暫定、2021年ベストムービーだ。
予想のつかない展開に強烈な演出、アイデアの数々。
あまりにも情報量が多く感情がとめどなくあふれ出す。まるでポジションゼロが噴き出す東京タワーのように、私の身体は宙に放り出されて制御不能に陥った。
そんな作品の感想をうまく端的に語るというのはあまりにも困難だ。これを公開直後に見てすぐに感想を紡ぎだしていた人たちは素直に凄いと思う。
言葉にまとめたり、文章を書いたりすることが下手だと自覚はしていたが、自分がいかにぼんやりと作品に向き合ってきたかを突き付けられたようで、少し悲しかった。ぼーっと生きていてごめんなさい。
だが、そんなことばかりも言ってられない。
こんな作品に出会えることは珍しい。いや、異常事態と言ってもいい。
今年はシンエヴァと漁港の肉子ちゃんもあったのだ。どうかしている。
個人的な感覚として、10年代においては2016年が異常な年だったが、20年代におけるその年が今年なのかもしれない。
だが、本当に難しい。何から語るべきなのか……。
ひとまずは、テレビシリーズを見た時のことについて少し触れておくべきだろうか。
テレビシリーズに感じた空虚さ
実はテレビシリーズを見た3年前は、正直肩透かしを食らったと感じていた。
計算された美しいレイアウトやビビッドな彩色、強烈な演出の数々は自分のツボを押さえてくれているのに、どうしても感情が昂らなかった。どこかピントがずれたようなもどかしさ。
そもそも幾原邦彦作品が大好きだったせいで、何か勘違いした期待をして身構えてしまったのかもしれない。
ただ、物語の構図としてどうしても腑に落ちない点が一つあった。
主人公・愛城華恋というキャラクターだ。
誇りのレヴューで天堂真矢に指摘されるように、華恋には覚悟が足りていなかった。私は、ここでいう覚悟とは他者に対する逡巡ではないかと考えた。
実際、渇望・嫉妬・孤独と他者に対するネガティブな感情は他のキャラクターに背負わされていた。一方、汚れなき華恋を突き動かすのは、ひかりと交わした約束を果たすこと、ただその一念だ。
それが彼女にとって特別であること、純粋であるがゆえにそう簡単に折れないことは理解できる。だが、大場ななも西條クロディーヌも天堂真矢さえも超えていくその姿には素直に感動しきれなかった。
やはりこの作品の物語的な仕掛けは大場なながループしているという展開にあったと思うが、その苦悩はあくまで大場なな個人の問題として消化される。その帰結自体は正しいと思うが、大場ななの痛ましい願望と悲哀に寄り添ったうえでそこに至ってほしいと思わずにはいられなかった。
また、最強を予感させた真矢クロの存在感も簡単に乗り越えられてしまったことにも物足りなさを感じた。誇りのレヴューで真矢に絶対的な差を見せつけられ、そこから華恋がみんなとのレヴューを経て舞台少女として成長して煌いていく。妥当な展開ではあるが、真矢クロという頂きを凌駕するほどの説得力は感じなかった。
もちろん1クールという限られた尺の中で紡げる物語には限界がある。
この作品のそもそもの成り立ちはミュージカルに軸足を置いたもので、アニメはあくまでメディアミックスの一環だったと記憶している。各キャラクターに見せ場を持たせつつ主人公がレヴューに勝利していくという筋書きは、こうした企画の方向性に多少なり縛られたものがあったのではないか、などと邪推した。
ただ、華恋の成長への説得力の無さを、敢えてという見方もできなくない。ひかりと2人でスタァライトしたいという華恋の思いは、彼女が舞台少女となるきっかけであり、いわば原初の煌めきだ。
それは舞台少女であれば誰しもが心に秘めた初期衝動。
眩しくて遠い過去。
大場ななにとっての99回聖翔祭。
舞台少女として真剣であればあるほど、その輝きには敵わない。勝てるはずがないのだ。あらゆる舞台少女にとっての届かぬいつかの煌めきが形を得たものが愛城華恋という存在なのだとすれば、彼女が勝ち進むことは道理と言える。
「私は負けていません。私達よりあの二人がスタァライトしていただけのこと」
そう、天堂真矢は負けていない。
私は目に涙を浮かべながら悔し紛れにそんな無茶な理解をするしかなかったのだ。
とまあ、映画の話をする前にくどくどとTVシリーズの話をしてしまったが、つまりは愛城華恋というキャラクターの欠落のなさゆえの空虚さが作品そのものへの物足りなさの源泉になっていたのではないか、という振り返りである。
ありきたりというと語弊があるが意外性の少ないキャラクター達と、その彼女たちの間にある絶対に裏切りのない温い関係性。そういったものに目が行って作品世界に奥行きを感じなかったのも、その中心には愛城華恋がいた気がするのだ。
だからこそ、劇場版である本作で愛城華恋の空虚さにスポットライトが当てられたことは個人的には膝を打つ思いだった。
だが、蓋を開けてみれば愛城華恋の存在だけではなく、登場するキャラクター達全員の存在(というより関係性)を問い直す、卒業と銘打つにふさわしい内容だった。そして何より、予想をはるかに凌駕する歪で狂った映像快楽の乱れ撃ち。小手先の物語解釈などどうでもよくなるほどの、体験する映画がそこにはあった。
それを言葉で解釈しようとする試みには何か背徳的なものを感じなくはないが、自分の感情を整理するためにも、劇中で何が起こっていたかを振り返っておこうと思う。
アバンタイトル トマト爆散
まずはアバンタイトルのシーンだろう。
このシーンの衝撃が見る者の感性を狂わせる。気が付けば、乗った覚えのないジェットコースターに安全バーも下ろされないままま座っているのだが、ジタバタしてももう遅い。ここから120分、振り落とされないよう必死にしがみつくことになる。
画面で起きていることはとてもシンプルで、トマトが爆散し、東京タワーが崩落する。
あとになってすぐわかることだが、このシーンはひかりが聖翔音楽学園を自主退学しロンドンに旅立ったことを象徴していた。二人でスタァライトできても立ち止まることなく、彼女は次の舞台を見据えていた。
だが、華恋は?
彼女にとってはひかりとスタァライトすることがすべてだった。
TVシリーズの結末はその2人を祝福する形で幕を閉じたが、しかし物語は、人生は続いていく。彼女たちはまだ高校2年生だ。その先が存在する。(存在させるのは観客であるというのがこの作品の主張でもあるのだが)
舞台に立ち続けるためには燃料が必要だ。
栄光を、屈辱を、輝かしい過去も、選ばれない未来さえも燃やして次の舞台に立たなければならない。彼女たちが生きることを許されたのは舞台の上のみだという残酷な運命がその前提にある。我々視聴者一人一人がその業を背負った存在の一部である。
話が少しそれたが、トマトの爆散と東京タワーの崩落は、華恋が舞台で輝くため(というより舞台に上がるため?)の燃料切れを意味する。華恋は、ひかりとスタァライトできたのだからずっとそれでいいと無意識のうちに思ってしまっていたのかもしれない。その感情は、99回聖翔祭を演じ続けようとした大場ななの感情と相似していた。
腑抜けた99期生
タイトルが明けると、舞台は聖翔音楽学園に移る。
先輩として新入生を導く彼女たちの逞しい姿がそこにはあった。
衝撃的な冒頭のシーンから一変、見慣れた日常に帰ってきたように見えるがそうではない。各々が自らの次の進路(舞台)を選ぶ中、華恋の未来だけは白紙のままだった。
「なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ―――行ってしまうのだ、友よ」
なぜ、とつぶやくたび99期生の面々が映し出される。
それは、彼女たちの抱えた“なぜ”がこの後問い直されることを予感させた。
友よ、のセリフを大場なながつぶやくことにも意味があり、彼女の視線の先には愛城華恋と共に舞台に立つ星見純那がいる。
卒業という無慈悲な区切りに対し、各々の今の立ち位置を端的にかつ情緒的に表している。どうしてもレヴューの圧倒的な存在が先に印象に残るが、この冒頭のシーンもとても巧みで印象的だったと思う。
不穏な空気は、続く学生寮のシーンでも現れる。今度はよりはっきりと、香子が吐き出す言葉によって。
彼女は京都に帰り家業を継ぐと言っていたが、実は心の中ではトップスタァになることを諦めきれないでいた。まるでそうした野生の飢えた本能は捨てたかのように振る舞うみんなに何をしょうもないことをやっているのかと突き付ける。
だが、香子のその言葉に嘘はないが真実ではなかった。彼女の苛立ちの根本には、双葉が相談もなしに自分と違う道を歩もうとしていることにあったからだ。
これまで描かれてきた衝突のない生ぬるい関係性にヒビを入れるかのようなシリアスな空気。に思わせておいて、さらに大場なながフェーズをもう一段階引き上げる。
「みんな、しゃべりすぎだよね」
そう、しゃべりすぎなのだ。彼女たちは舞台少女。それが正であれ負であれ、感情は燃やして舞台の上でぶつけ合うべきものだ。舞台の言うべきセリフを舞台の外で語るなんて、舞台少女の輝きを、燃料をダラダラと洩らしてしまうようなものなのだ。
やはり大場ななは次元が違う。
そんな不穏な空気を抱えたまま、いよいよ新国立第一歌劇団へ向かう日がやってくる。
円環を描く地下鉄に乗った彼女たちだったが、ダラダラとおしゃべりに興じる彼女たちを乗せた列車は次の駅に辿り着かない。
そしてレヴューが幕を開ける。
皆殺しのレヴュー
これはオーディションに非ず。
そう、今回のレヴューはいずれも以前のオーディションとは様子が違う。星を落とされても負けではない。一枠を争う競争ではない。競演なのだ。
舞台少女がお互いの想いを、魂をぶつけ合う舞台。その研鑽こそが舞台少女の輝きである。(いわゆる「常に本番だと思って練習せよ」だろうか)
ではこのレヴューの想いは?
答えは明白だ。大場ななのみんなへの想い。
この学園での生活に満足し、まるで電車に乗るような当たり前さで次の居場所を決めて呑気に学生生活を送る。そんな危機感のない態度は、舞台少女として死んだも同然だと。
わたしたちが舞台を選ぶのではない、わたしたちは常に舞台の上なのだと。
舞台少女であり続けるならその覚悟を忘れるなと、ななはそのことを伝えたかったのだろう。
ただ、大事なのは大場ななは決して死を回避しようとしたわけではない、ということだ。私の解釈だが、舞台少女の本質は塔を登って下りることの繰り返し、生と死を幾度となく巡り続ける輪舞にある。何度も死に、その死体すら燃料にして何度も自分を再生産する。
だから、死んだことが問題なのではなく、死んだことに気づいていないことが問題だったのだ。
大場ななが気づいてほしかったのはそういうことじゃないだろうか。
それがワイルドスクリーンバロックの筋書きの根幹であり、手始めに警鐘を鳴らすために皆殺しを始めたというところだろう。
だが、引っかかる点があるとすれば、大場なな自身「わたしも役に戻ろう」と言っていたことだ。
役を演じるとは、星見純那へ執着するということだ。
それはすなわち、この作品のキャラクターである大場ななを客観的に見た場合の役柄の一つである。これを、「大場ななは作品に対するメタ的な視点を持ち合わせている」という風に理解することも可能だろう。ただそれは、星見純那に対する感情さえも仕組まれたものであると、そうあれと望まれた存在であると理解した上で振舞っているかのようにも拡大解釈できる。だが、この作品を見た多くの人はそれを否定するだろう。私も同じ気持ちだ。
では、ここで言っている役とはどういうことだろうか。
私は、舞台とは人生であり、役とは自分自身を指すと理解した。
私達だって少なくない頻度で自分の人生を俯瞰して物語として解釈し、自己というものをその物語の中の役として分析することがある。(そうして往々にして、起伏のない物語を特徴のない役として生きることを恥じ、苦悩するのだ)
つまり、大場ななにとって星見純那と向き合うことを役に戻ると表現したのは、自分の人生を歩むために最も大切なものに向き合おうという宣言だったのではないか。
こう解釈すれば、大場なながメタ的な視点を持っているということと、星見純那への想いは純粋であるということが両立できる。
思えば彼女はいつも観測者だった。カメラを持って一歩引いた場所から誰かを観測する。彼女は自分のいる世界を一つの舞台(物語)として解釈する傾向があるのだろう。そしてその性質は、彼女がずっと孤独だったことと無縁ではないはずだ。天性の舞台人でありながら、舞台を設計する者の視点も持ち合わせた二刀流。それが彼女の在り方だった。
それにしても、このレヴューでの大場ななは圧巻だった。
これから殺しをやろうというのにその眼差しは気怠そうで、まるで児戯に付き合うような軽率さで次々と舞台少女を狩っていく。
特に印象的だったのは、遅れてきた刀を受け取る仕草、その後の膝を落とした姿勢、飛び上がった逆さの姿勢のまま2つの星を落とす動き、戦意を喪失した純那をまるで埃でも払うかのように軽々しく薙ぎ払う所作。
この一連の緩急のある天才的なリズムによってもたらされる大場ななの規格外感は鳥肌の立つ演出だった。
舞台の上で役を演じれないまま次々と大場ななに星を落とされていく中で、ただ一人天堂真矢だけは同じ舞台に立ち、対峙することができた。彼女だけは現状に満足することなく、いつでも舞台の上にいる覚悟ができていたのだ。ところが、天堂真矢もまたあっさりと敗北してしまう。それが与えられた役だからなのか、彼女もまた無自覚に死に近づいていたからなのか、理由はわからない。
天堂真矢さえも討ち取り、ポジションゼロを獲った大場ななは「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」と気怠そうにこぼす。
あろうことか、星見純那はそれをセリフだとも気づかずに「わたしたち未成年じゃない」とマジレスで返す始末。今の自分(未成年)に合わせて役を選ぶなんて言語道断。未成年という言葉がまた、庇護されて当たり前の存在であることに無意識に甘んじているようで、大場ななを余計に苛立たせた気がする。最初に血を噴き出して殺されるのが彼女だったのは、必然だったのかもしれない。
その血を舐めた香子が「甘い」と漏らすが、それは列車に乗れば次の駅に着くと考える彼女たちの甘さを指したようにも聞こえた。
遅れてきた本差し「輪」
一応本差しが遅れてやってきた理由についても触れておく。ただ、正直すっきりとした気持ちのいい解釈はできていない。
そもそも二刀流は彼女の舞台を作る側と演じる側の間で揺れる(というよりはプレイングマネージャーである?)、あるいは双方の才能を有した状態を指すと考えられる、という点には誰も異論ないだろう。本差しが「輪」脇差しが「舞」ならば、後者を演じる側と解釈するのが自然ではないだろうか。実際彼女の異質性は舞台や役を徹底して俯瞰して見ることができる点にあると考えれば、彼女の本差しは作る側にあると考えていい気がする。
大場ななはこのレヴューで「わたしたちは死んでいる」と己もまた死んだ状態だと言っている。そのうえで「役に戻る」と宣言するわけだ。この状況は、彼女にとって演じるべき舞台(物語)が見えていないことを意味しないだろうか。人によって違うのかもしれないが、大場ななは俯瞰して物語(舞台)を見ることで、その中で演じるべき役を見据えるタイプだと思う。脇差し「舞」のみを持った状態は、輪(舞台)の見えないまま、舞って(生きて)いる状況を差し、その後「輪」が遅れて到着したことは演じるべき舞台が整い演じる役が定まった(覚悟を決めた)ことを示唆しないだろうか。
それと、異なる路線の列車についても無理やり解釈を与えるなら、ありえた別の可能性(並行世界)というのはどうだろうか。もしかしたら、それは演出(本差し)一本に絞る選択をした世界なのかもしれない。
これは完全に個人的な妄想だが、彼女は二刀流であるがゆえに彼女なのだから、どちらかを捨てるというのは似合わないと思う。どっちつかずに揺れながらも、いまは二刀流であることを受け入れたと見るのは都合がよすぎるだろうか。
ただ、ここまで言っておいてあれだが、以上の解釈が正しいかどうか(画面上の情報として矛盾しないか)は私にとってさして重要ではない。
重要なのは孤独だった大場ななが大切なみんなを救うために立ち上がり、二刀流であることを受け入れて、向き合うべき存在に向き合う覚悟を決めたということだ。
愛城華恋の不在
このレヴューでもう一つ触れておかなければならない点は、ここに愛城華恋がいないということだろう。
皆殺しのレヴューのあと場面は再び地下鉄の中に戻り、大場ななに話しかけられた華恋は何が起こったのか理解できていない様子だった。(この愛城華恋の乗った列車、実は本差しが刺さっていた列車なのでは?と思ったが、特に確証がないし、そうだとして何か意味が立ち上がるわけでもないので違う気もする)
レヴューが始まる前も、ななは華恋とだけ言葉を交わしていた。華恋は他のみんなと違ったからだ。言うまでもないことだが、彼女はひかりの喪失から立ち直ることができず、次の舞台を見つけられていなかった。
自分を問い直し、次の舞台を、自分にとっての運命の舞台を必死に模索する。大切な人への執着に苦悩する姿が己と重なったのだろうか。愛城華恋を見送る大場ななのまなざしは、皆殺しのレヴューと違って温もりを感じた。
ここでふと疑問に思うのが、大場ななはどこまで見えていたのかということだ。
そもそもロンドロンドロンドのラストで大場ななが神楽ひかりを呼び出したのは、恐らく劇場版冒頭の華恋との別れを演出するためだ。
その動機は舞台少女の死をみたこと。
だとすれば、死から再生するためにひかりが華恋のもとを離れる必要があると考えたのだろうか。
真意はわからない。ただ、華恋に接する態度は優しく見えた。
大場ななは気づいていたのではないか。上述したとおり、愛城華恋が空虚で危うい存在だということに。
実は今回のワイルドスクリーンバロックの筋書き、99期生の卒業が本筋ではあるが、しかし愛城華恋の救済が主題だったのではとも思うのだ。
それはテレビシリーズで私が抱えた不満だけが根拠なのではない。すこし先取りしてしまうが、最後に全員が崩壊した東京タワーを見つめて上掛けを外すシーンがある。愛城華恋の危うさに、大場なな以外のメンバーも気づいていたのではないだろうか。
華恋が無事卒業を迎えるためには己と向き合う舞台が必要だった。その舞台として、今一度彼女たちも華恋と同様に自分に向き合うことを選んだのだとしたら。
最後のあのシーンには、どうしようもなくそうした愛城華恋を中心とした99期生の関係性を見てしまうのだ。ロンドロンドロンドのエンドロールの最後、愛城華恋が8色のライトに照らされていたように、ワイルドスクリーンバロックもまた、彼女を皆が見守るように設計されていたのかもしれない……というのは妄想しすぎか。
長くなり過ぎたので一旦ここで区切ろうと思う。
エヴァの時のように時間がかかりそうだ。。。
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