映画『カモンカモン』 記憶と記録
マイク・ミルズ作品に通底しているものが何かと考えた時に、その一つは優しさだと思う。
導き出した結論や主張を押し付けがましく伝えるのではなく、断続的に考え続けたプロセスを共有してくれる(私はこう感じたのだがあなたはどうだろうかという)優しさ。落ち着いた品のあるカメラワークからもそんな優しさがにじみ出ているようだ。
見ているうちに鏡の前で次第に脱がされていき、己の裸を観察させられるような、何かをむき出しにさせられる感覚がある。それがまったく不快ではないのは、家族という身近な存在を主題に作品を作りながら、彼自身がまず裸になっていると感じるからではないだろうか。
大げさな書き方をしてしまったけれど、この映画を見ている間はそれほどに自分というものを意識せずにはいられなかった。
画面だけに集中できればそんなことにはならなかったはずだ。
まず何よりも、ホアキン・フェニックスとウディ・ノーマンの演技が素晴らしい。特にウディ・ノーマンのリアルな素の子どもの存在感は凄まじかった。
ここでいうリアルというのは「一見何を感じ考えているのかわからないが、他者の繊細な感情の変化や視線の意味を確かに感じ取っている、研ぎ澄まされた子どもの感性」のことだ。
そんな2人の様子を見守るようにカメラが映す映像は悉く情緒的で美しく、さらにモノクロであることが日常風景をより特別でアーティスティックなものに仕立ててくれる。
また、モノクロであることはただ画面を洗練させるという効果だけではなく、この光景がやがて記憶の中で色褪せていくことを予告しているようにも見えたという点で、時間的な効果も持っていた。(後述するが、劇中でもジョニーがはっきりと口にしており、大きなテーマとなっていた)
しかし、それほど美しい画面に私は集中することができなかった。
日常シーンが続きストーリーに大きな起伏がないことが理由の一つだが、そのこと以上に大きかったのは、子どもたちのインタビューシーンの存在だ。
ここだけは映像が明らかにドキュメンタリーに寄っている。彼らの言葉は(意図的かはわからないが)ジョニーやジェシーら家族の何かを意味づけることはなく、ただ作品を見ている私の方に向かってくる。間違いなくこの要素が、フィクションでもドキュメンタリーでもない、あいまいで特別な鑑賞体験を作り出していると思う。
長々と何が言いたいかと言うと、このあとに書いた文章も作品世界に浸った感想というよりは、この映画を見ながら私が考えたことになっているという・・・まあ、言い訳ですね。
「“純粋な”子どもという幻想」
最初にも書いたが、マイク・ミルズの映画を見ていると鏡の前で裸にさせられる。鏡とは、他者である。そして、今作では子どもという特別な鏡が中心にある。
特別と言っても、別に子供のことを大人と違って「一点の曇りもない純粋無垢な存在」などというつもりはない。それは実在の子どもではなく、大人がそうあってほしいと願う、空想上の感情増幅装置にすぎない。
子どもがもし純粋であるとすれば(そもそも私は自分を振り返ってそれほど純粋だったとは思わないが)、それは己の感情に対して純粋なのではないか。だからこそ、彼らは時に恐ろしいほど残酷な一面を見せる。
そして、相対的にもし大人が純粋でないとするなら、それは歳を取るとともに自分に対して嘘をつく器用さを覚えるようになるからではないか、などと思ったりする。
本作でもジェシーをはじめ、インタビューで登場する子どもたちもみな、自分なりの考えや感覚を持った一人の独立した人間として描かれていた。むしろ大人が考えがちな子どもらしさは徹底して廃しているようにさえ見えた。
そして子どもたちのインタビュー映像は、ジェシーが決してフィクション上の特別な子なのではないということを訴えいてるようだった。彼らの胸の奥には、個々人の生育環境によって異なる、複雑でドロドロとした人間らしい感情が渦巻いていた。
「恐ろしい子どもたち」
そして、そんな彼らが大人に対して向ける考えや意見は、どれも冷静でシンプルで否定のしようがなく、それゆえに恐ろしいほど鋭利だった。
その鋭さはこちらだけでなく、彼ら自身にも向けられている。自らを偽る屁理屈という鎧を持たない彼らにとって、その問いは存在そのものを揺るがしかねない危険をはらんでいる。
わかりたい。
説明がほしい。
愛されたい。
そんな純粋な衝動をどうにかいなしながら飼い慣らしたつもりになっていた私にとって、世界を解明したいという思いを改めて正面から突きつけられることは恐ろしいと感じる。
彼らと対峙する時、目の前にいる彼彼女の視線に加えて、もう一つ背後から別の視線が注がれる。私の中に今なおあり続ける子どもの私の視線だ。
「子どもが切り拓く関係性」
彼らの問いの多くは人間関係に関することだ。
ジョニーがジェシーに問い詰められたのも、妹ヴィヴとの関係性だった。
ジョニーはどうにか真実を告げないで済むよう言い訳ではぐらかすのだが、そのことを妹に話すうちに自然と彼女に対して心を開くようになるというのが面白かった。
息子は母と伯父のことを知りたいと思って問い詰めるのだが、それを通じて伯父は妹の知らない一面を知ることになり、2人の関係が解きほぐされる。それをもたらしたのは大人と子どもという単純な二者関係ではない。家族という一つの複雑なコミュニティの中に、新たな星の子どもがやってくることで生まれた化学反応のおかげだった。
子どもの鋭利な好奇心が家族の関係性を切り裂いたのだ。そしてそれをもたらしたのは、ヴィヴの夫ポールがいたからでもある。
「聞くということ」
ジョニーは仕事で子どもたちにインタビューをする。
ジェシーはインタビューで使われるマイクを手にして、まだ見ぬ世界の音を拾う。
共通しているのは聞く姿勢だ。
何人かのインタビューでは、他者とわかりあえないことの恐怖や孤独感が取り上げられていた。それを乗り越えるために、対話が必要だ。そして、対話において何より重要なのは、相手が何を考えどう感じているのかを聞く姿勢だ。
インタビューの記録音声が驚くほど長い時間流されるこの映画を見ていると、聞くことの重要性を強く強く訴えているように感じた。当たり前のことだ。当たり前のことなのに、わたしたちは普段どれだけ相手の話に耳を傾けているだろう。
そしてもう一つ、割と序盤にさらっと語られてしまうが、とても重要なことをジョニーが口にする。
なぜ音声記録を残すのか、ということについて。
「凡庸なものを不滅にするということはクールだ」
大人と子どもという主題の影に忍ばされたこの記録というテーマが私はとても大好きだ。
「不可逆な生における記録」
このセリフをジョニーは笑いながら口にするので、ぱっと見はあまり重要な印象を与えない。だが、終盤にかけてこのセリフを思い出させる展開が二つやってくる。
一つは、ジョニーがジェシーに読み聞かせる『星の子供』の絵本だ。
劇中ではもう少し長く引用されるが、ここではその一部を記す。人生の儚さや豊かさの示唆に富んだ含蓄のある言葉だ。
「長年理解しようとする、幸せで悲しく豊かで空っぽな変わり続ける人生の意味を。そして星に還る日が来たら、不思議な美しい世界との別れが辛くなるだろう」
もう一つは「ジェシーはいずれこの旅のことを忘れてしまうだろう」とジョニーが語るシーンだ。
これに対してジェシーはずっと覚えていると反論するが、そうはならないことをジョニーは経験的に知っている。ジョニーにとってはかけがえのないこの小さな思い出も、これから様々な出会いが待っているジェシーにとってはやがて色褪せる記憶となる。大人と子どもを分かつ、どうしようもない時の断絶。これもまた不可逆な生が持つ残酷さだ。
最初に書いたが、モノクロ映像が持つ意味はここにあると感じた。
つまり、記憶の中の風景としての色を失った映像である。
二つのシーンを通じて感じるのは、人の世の無常さ、儚さ、切なさだ。
凡庸な日常の風景はいずれ他の記憶に上書きされて忘れ去られる。たとえ、どれほど本人が忘れたくないと思っていても関係なくすり減っていく。
星に還るとき、いったいどれだけの思い出を持っていられるだろう。
だがそれなら、世界と別れがたいと感じる時に、私たちを引き止める不思議な美しさを形作るものとはなんだろうか。
そんな世界でジョニーは記録する。
「俺が思い出させてやる」
この映画の最後のセリフだ。(たぶん)
忘れゆく日常の断片の煌めき。時を越えて、その輝きを保存する。
それは確かに無価値かもしれないけれど、きっとほんの少し人生を豊かにしてくれる。
つまり、記録するということは不可逆で残酷な生に対する人間のささやかな反抗であり、だからこそ「クールだ」とジョニーは感じるのではないだろうか。
「自分を他人に委ねる」
起伏の少ないこの作品において、クライマックスといえるシーンはやはり公園で叫ぶシーンではないだろうか。
それまで周囲の人間のあらゆる感情の機微を拾ってきたジェシーは、自らの大事な気持ちを隠している部分があった。それは、自分が何かを主張することで、大切な何かが失われたり壊れたりすることが(あるいは既に壊れていると知ることが)怖かったからだろう。
ジェシーはそんな本当の気持ちを隠すために、あえて大人が夢想する“子どもらしさ”さえも逆手に取って、“子どもらしく”振る舞っているようにも見えた。自らの殻の内に閉じこもること、それこそが彼にとっての回復ゾーンだったのだ。
そんな彼にジョニーが教えたのは、回復ゾーンは自分の外(他者との関係)にもあるということだった。
ここだけ切り出してしまうと、子どもは子どもらしく素直でいろという大人の押し付けに見えなくもないが、ジョニーはジェシーを一人前の人間として扱うようになる積み上げがあったから、押し付けがましさを全く感じさせなかった。
一人の人間が生きていく上で、苦しみに押しつぶされそうになった時にどう対処すればよいか、あくまで解決手段の一つを伝えたのだ。
ヴィヴがステーキを食べるように、自分の機嫌のとり方を知ることは、生きていく上で大切なことだから。
「大人になるために子どもらしく」
結局大人と子どもの定義なんて曖昧なままで、どうすれば大人になれるかはわからない。なら、無理に大人になろうとしなくてもいい。斜に構えたり背伸びしたりせずに自分の気持ちに素直になって、いっぱい傷ついていっぱい恥をかくことから始めればいい。
まずはわざとらしくてもいいから子どもらしくしてみると、そこから大人の在り方が浮かび上がることだってあるんじゃないか。
だってジェシーはどうしたってまだ子どもなんだから。
公園の二人の叫び合いのシーンにはそんな意味も感じ取れた。
自分の好きな作品と無理やりこじつけたがるのはオタクの悪い癖だけど、このニュアンスはどこかFLCLと繋がっている気がするのだが、どうか。(どうもこうもない、こじつけだ)
日本の地方都市を舞台に大人とはなにかを問うたサブカル作品としてのFLCLが、アメリカの王道作品としてお洒落に生まれ変わったのが・・・はい、ごめんなさい、やめます。
「C'mon C'mon」
タイトルになったこの言葉は、ジェシーが一人でインタビューごっこをしている時に口にする。
カモンカモンと繰り返す前にジェシーはこう言う。
「起きると思うことは絶対に起きない。考えもしないようなことが起きる」
予想もつかない未来は恐ろしい。足がすくむほどに。
「だから先へ進むしかない」
だが、それでも歩みを止めないのはなぜ?
それ以外に選択肢がないという諦め?
たしかにそうだ。けど、それだけじゃないはず。
そこに微かな希望を、期待を見出すから。
誰かとわかりあえる可能性をまだ諦めきれずにいるから。
一度でも誰かに愛された経験があるからこそ。
つまるところ、大人が担う役割とはそういうことかもしれない。
あなたが諦めない限り、未来は美しい。
先へ、先へ。
C'mon C'mon.
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