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明日

20220502

ある映像をみていた。

明日自分が死ぬとしたらどうするか?とたずねられて、「実家に帰って、母親と、家族に、ごはんをつくってあげたい」と答えていた。

なんかいいなあと思った。

残りわずかな時間のすごし方として、親や家族を選べるところがステキだった。

そしてそれ以上に、ごはんをつくって食べさせたいっていうのが、なんだか沁みた。

自分が何をしたいかってことより、誰かに何かをしてあげたいが先にきていて、そしてその行為がごはんをつくるってのも、なんだかいい。

押し付けがましくなくて、だけど特別な、そんな時間になる気がする。

今の僕が、明日死ぬならどうすると言われれば、やっぱり家族、妻と娘とすごすことを選ぶんだと思う。その日なんとなく行きたいところ行って、おやつをどこかで食べて、晩ごはんは家でつくる。結局、ただのいつも通りだと思う。

いなくなった後、さびしいと思ってもらえるようなら、SNSと書でも見てね、とでも言おうか。

ここ3年くらい日々のほとんどをSNSに落としてきた。ポジティブなことの多くは写真や動画で、ポジティブでない側面は文章だったりにしてきた。

すべて、なんてのは到底無理だけど、生活の大部分を想起させるものにはなっているような、そんな気はしている。

自分から投稿することのなかったSNSを急に使うようになった。それは、妻と娘が僕の痕跡を見たくなるなんて時がきた時のための備えだったりもするのかもしれない。

こうして文章を書く習慣も3年くらいになるが、そこにあるであろう思考の方向性(それを思想というのだろうか)と、同じ方を向いて欲しいわけではない。リリックと称して書いている言葉にも、そんな意図はない。

伝えたいことがあるとすれば、いつもありがとう、とか、一息ついて、とか、大丈夫じゃない、とか、そんな10文字に満たない言葉くらいだ。

僕が日々やっていることの中で、そんな想いに該当するのは、書だろう。

身体のリズムと、僕が日々使ってた言葉とが、紙の上で一堂に会する。会したらいいなあと思いながら、筆と水と、紙と墨とを楽しんでいる。

死ぬ前日でもいつも通りな、さっとつくるごはんくらいな、書ってやつができたらいいなと、想いを新たにしたのでした。

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