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あなたとわたしをたやすくわたしたちと呼ばない
20201009
妻の友人に霊感がつよい人がいる。幼少期から霊的体験を多くしている。
僕は霊的体験、神秘体験などにふれたことはない。認識しているかぎりではたぶん。
霊的存在を手放しで認めるってこともなかなかできない。
ただ、その人の体験自体は、おおいに信用している。
霊の存在ではなくてその人自体、そしてその人の何かしらの経験自体は信じているから。
その人が霊的体験をしているとおもっているなら、しているんだと思う。最新の科学の見地が加われば説明つくこともあるかもしれない。それは霊的な現象ではない、こうこうこういうことです、と。
でもそこに説明がつこうがつかまいが、その人の経験が増えたり減ったりするわけではない。
何を知覚し、当たり前と感じ、受け容れるのか。何にフォーカスが合ってるか。
それだけの話なんだと思う。
霊の話だとややこしくなる。
たとえば、人付き合いの中で、いいところが見える人は、いいところを見つける焦点があってる。イヤなところが見える人は、イヤなところを見つける焦点があってる。
いいところが見えるのと霊的なものが見えることに、特別な違いはないんじゃないかなって気がしている。
みえるかみえないかっていうのは所詮その程度のことだとも言えるし、だからこそ誰であろうと各自に宿る体験の積み重ねは尊いものだとも言える。
それぞれの経てきた複雑さのままにそれぞれの世界はある。
複雑さを、速く正しく単純化しようとする暴力から、距離をとること。
できるだけそれぞれの複雑さが保たれること。健やかなままに複雑さが相変わっていくだけの余裕が確保されること。
あなたとわたしを、たやすくわたしたちと呼ばないこと。
世迷いごと。