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そっと

20210707

友だちいっぱいいたら楽しいんだろうなあと、急に思ったりすることがよくある。

僕の日々をチラチラと見てくださる方は、意外に思ったりするのかもだけど、それなりに他人の目は気になる。承認欲求もまあちゃんとある。

友だちがそれなりの数いてワイワイしたり、相談しあえたりする関係に羨ましさを覚えたりもする。
そんなことを思うたびに、冷静になる。

いやお前、ワイワイしたがってもないし、相談したがってもないやんと自分でツッコむ。休みの日に一緒に遊びたいとか思ってないし、外食とかしたい感じも薄い。

結局万全に日々のルーティンをやり切りたいだけ。

じゃあ友だちって言葉の響きに何を期待してるのかなあと巡らせてみれば、理解者ってことだろうか。

そっと手をさしのべてくれたり、そっと寄り添ってくれる。

そうか。

この“そっと”感が、僕にとっての、友だち観には大切なのかもしれない。

言葉にしてみれば随分と都合のいい友だち観ではある。けれどもどうあれそう思ってしまっていることは事実なのだから、受け容れたうえで次がはじまることでしょうということで、もう少し掘り下げる。

“そっと”が成り立つのは、距離の近さが重要なんだなと思う。

身体が直接に発する声を聴きとれるだけの距離。

そんな距離感を保ちつづけられてる間柄を思い浮かべるに、結局妻だなと落ちつく。

人生の半分ほどを一緒にすごしてきて、ずっと“そっと”を実践しつづけてくれている(多少はこちらもできていて欲しい)。

今までの人生を思い返してみれば、自然と慕われる人ってのは、“そっと”に徹しつづけていたような気がする。

なんとなく彼らのバックボーンを思うに、親と子との関係の中で、当たり前のように“そっと”が溢れていたんだろうと推測する。

うらやましいなあと言い訳がましいことを口にしそうになるが、それよりなにより、“そっと”のヒントを授けてもらった気がしてうれしくなる。

いまさら人気者になりたいとかは思わない。“そっと”をそこら中に振りまけるだけの器量が今の僕にはない。

でも身の回りで手が届く隣人たちには、できる限りで“そっと”を実践したい。

そのためのヒントが、これまで出会った慕いたい人の姿、そして妻と僕との関係に潜んでくれてる気がする。

みずから“そっと”を実践する。

そして願わくば、お互いに“そっと”寄り添いあえる関係を築いていきたいものです。

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