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自分の弱さにつまづいてかいしゃをやめたはなし

僕は会社をやめて、29年生きてきてはじめて、自分で人生を歩みだした気がしています。

会社をやめたとき、自分の中の「自分」をできるだけ深く見つめようとしました。その時のことを、できるだけ赤裸々に書いた文章です。

正しいことは書いていないと思います。

一人でも、読んでくださる方がいれば、うれしいです。

(これは3/29に投稿済みの記事を、キナリ杯にあわせ、再投稿したものです。多くの方に届くかもしれない貴重な機会かと思い、応募させていただきました。)


0.うんちか浣腸 糞詰まりに愛を

ここに書いてあるのは、僕のうんちです。

反省ではないです。
できるだけ、現状に目を背けないでいようとしています。

便秘でした。
まわりと、なにより自分を、責めつづけていた結果の、消化不良です。

人前でのうんちなんて、恥ずかしいし、汚いです。

ただ、もしかしたら。
このうんちが誰かにとっての浣腸になるかもしれない。
そして、また、どこかでうんちが出るかもしれない。
そう思って、書きます。

読んでくれて、ありがとうございます。


1.弱さを書くってことわざある?

2020年2月7日に、はたらいていた会社をやめました。

4年と9ヶ月、いました。

雇用条件だけみれば、すっごいブラックだったってことはないと思います。
福利厚生あり。社長と社員がわきあいあいと仲がよさそうにみえる人間関係。

長時間のサービス残業などはありました。出勤時間などは決まっていない風で、自由という名目のもと、社長のリズムにあわせたはたらき方をすることも多かったです。

ただそういった環境でも、自らすすんで、社長とはたらきたい!と思える人材を求めていたと思うし、そう思って入社したであろう人たちが集まっていました。

少なくとも僕は、社長とはたらきたいと思って入社しました。社長のリズムにあわせてはたらくことにも迷いはありませんでした。

でも、気づいたら、やめていました。

身を粉にして、一心不乱にはたらきたい。そう思っていたはずなのに、それができなくなっていました。

できるだけはやく、この場所から、社長のそばから離れなければいけない、と思うようになっていました。

まあ、いまどき会社をやめるなんてめずらしいことでもないし、なにをおおげさなというような気が、自分でも、してはいます。

ただ、はたらきたかったはずのものがはたらけなくなり、社長と一緒にいたかったはずがそうではなくなりました。

社長には、複雑な思いをもっています。
いろんなことに気づかせてくれてありがとうから、もう二度と顔を合わせたくありませんまで、行ったり来たりしています。

この文章では、会社をやめたことについて、ふりかえります。

たどりつくのは自分の弱さってところなのかなと思っています。
他人を責めたいわけでもないし、まして、自分を責めたいわけでもありません。

ただこのタイミングで、自分の弱さみたいなものをつかまえたい。
そう急に思って、書きはじめました。

文章を書く。
書く。

少し構えてしまいます。

役に立つものを書かねばっていうプレッシャーがあります。
大丈夫、これは自分をみつめて、どこか別の場所へいくためだから、とおちつかせます。

僕は書くことを楽しみにしています。
でも億劫でもあります。

目の前にたまっている水は濁っています。
中はよくみえません。
その中にとびこむような、気味のわるさを感じています。
ひそんでいる何かにひきずりこまれて、元に戻れないんじゃないかっていう怖さもあります。

深呼吸をします。
力を脱きます。

水の中で、何があるのか、たしかめようと思っています。

書きおわって、水の中から顔を出したときに、何がみえるのか。

味わおうと思います。


2.別れと出会い またねは言えない

やめると決めたキッカケはささいなことでした。

あるできごとで、この人には誠実さと愛を感じないと社長のPさんをハッキリ意識しました。
その1週間後にはやめることを伝えていました。

ふりかえってみると、それまでにもそう感じることはありました。
むしろ、もっと多くの不満でいっぱいでした。

ただ、その日はいつもと違いました。
尊敬の気持ちと軽蔑の気持ちとのバランスが崩れてしまったこと、あるいは、すでに崩れてしまっていたこと、みないフリはできなくなりました。
それまでの不信感や不満が、おなじ場所にいたくないというかたちで、湧きでてきました。

Pさんとは、僕が大学生のころからのつきあいです。
そこそこに有名なデザイナーで、つくるものや考え方が、僕は好きでした。会社をやめた今でも好きなものはあります。

僕は大学で建築を専攻していました。
建築の歴史や古い集落について研究していました。

Pさんは、建築が好きでした。
直接的に建築をつくっていたわけでありません。ただ、将来自分でつくりたいと言っていたし、それにまつわるような仕事もしていました。
あと、Pさんの会社の本社は、山奥の、古くからの限界集落にありました。

ぼくは、どうしようもない学生でしたが、建築の世界にたずさわっていたこと、村での生活に興味をもちそうなことなどあり、目にかけて、よくしてくれていたのかなと思います。

就職活動の時期に、会社に入らないかとPさんに誘われました。
ぼくは快諾しました。
世の中の就職活動の流れに魅力を感じていなかったし、自分がすごしてきた中での縁で仕事がきまるなら願ったりと思っていました。

なにより、社長でありデザイナーであるPさんの活動自体にほれていたので、うれしかったのです。

Pさんといれば、なにかおもしろいことができるかもしれない、そんなことを思っていました。


3.マイナスとプラス Hurry up! 極楽

学生時代、建築家になりたいと思ったことは、たぶん一度もありませんでした。

なにかを学ぶことは好きだったので、建築というジャンルの中で、興味をもてることを、そこそこにマジメにやっていた程度のことだと思います。

なにが自分をおもしろいと感じさせてくれるんだろうか、頭はそんなことでいっぱいでした。

おもしろいと感じさせてくれるものがあるにちがいない。
ないと割にあわない。

確信に似た希望、もしくは、願いに近いものでした。

できるだけ急いで、自分の中でマイナスだったと決めつけていた日々を、プラスのものとして回収できるチャンスをうかがっていました。


4.ただ生きてる たまに視える

「最近なにしてるの?」

「ただ生きてるだけ」

18歳のころの、友だちとの会話です。
彼とは、中学の塾が一緒で、高校の同級生でした。大学もお互い東京でした。
映画をつくるか小説を書きたがっていた彼は、いつかセリフに使おうと、たしかそんなことを、会話のあとにつぶやいていました。

3ヶ月後、彼は自殺しました。

悲しかった。
でもそれ以上に、納得していました。
それくらい、彼はどこか危うく生きているのを感じていました。

そして、彼の自殺に共感できてしまうくらいに、僕も危うい気持ちをもって生きていました。

こんな世の中、そりゃあ、死ぬよね、と。

ただ、彼よりすこしだけ器用だった僕は、そんな気持ちをうまく押し殺して、日々をやりすごしていました。

僕が大学受験のときに、建築でもうけてみるかと思ったキッカケは彼でした。
Pさんと出会うキッカケになったサークルを紹介してくれたのも彼です。

建築家なんて1人も知らなかったし、建築に感銘をうけたこともありませんでした。

ただ、彼がもっていた、文化のニオイみたいなものに、どことなく憧れていました。

僕は数学と国語が好きでした。
そこに文化っていう三角形ができて、建築をうけることにしました。

今でも、ふと、彼の家での最後の会話を思いだします。
夢にでてきたりも、たまにします。

ご両親が遺体を発見したときには腐敗がすすんでいたそうです。彼の家で話をしてから、つぎに彼の顔をみたのは、彼の実家の仏壇でした。

最後の姿をみていないから、どこかで日々を歩んでいて、バッタリまた会うんじゃないかなと空想したりします。

ただ生きてるって何?

彼のことを思い起こすたびに、ノドの奥の魚の骨みたいに、気になります。


5.我慢が足らん

「こいつ仕事できないから。」
「働くふりばっかするんだよ。」

Pさんが、そんなことを、人前でよく言っている時期がありました。
入社してから2年くらいの間です。

Pさんはなんでそんなことを言うのか、よくわりませんでした。

いや、なんとなくはわかっていました。
社長としてのPさんが望む結果を、社員の僕が出していないからだろう、と。

Pさんがそういう言葉を吐きだしていたのは、ありがたい期待もあったのだと思います。
僕なら、Pさんが望んだ結果をだせるはずで、そこに至っていないのは、僕の力のかけ方が足りないんだろ、とか。

まあ、そうだったかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれません。

Pさんからの、直接の言葉はこたえました。
ぼくの直属の上司は社長のPさんしかいなかったし、なにより仕事ぶりに憧れていた人でした。

悲しいし、悔しいし、腹立たしかった。

自宅のそばを大きな川が流れていました。
その川に入って沈んでしまおうかと思ったこともありました。

ネガティブな気持ちでいっぱいでした。

ただ、会社をやめることはしませんでした。

そのタイミングで会社をやめる、その場から逃げるっていうことを、自分が自分に許しませんでした。他の誰でもありません。

「我慢の時期ってあるじゃん、それだよそれ。」

自分に厳しくすることは、それまでの人生で慣れっこになっていました。
自分の頭が考えて、そうした方がいいんだと判断していました。

ただ、心だったり体だったりは、頭の下した判断に反発したんだと思います。

自分の頭が、自分の心や体に強いた我慢。
それは連鎖しました。

他人に我慢を強いるようになりました。
その矛先は同僚でした。

自分とおなじくらい、なんなら、もっと根本的にヒドイと思えることをしでかす同僚たちが、なぜかPさんのおとがめなしで、ヘラヘラして、勝手なことをしている。

僕には社内がそうみえていました。

同僚にキツくあたっていました。
影で文句を言っていました。

影でだけではなく、本人たちの前でも文句を言っていました。
飲み会で、ある程度お酒がはいると、涙をながしながら何かを訴えていました。

それは不満だったし、助けてという叫びだったと思うけど、結果だけみれば、相手を自分の思うようにコントロールしようとしていただけでした。

あの頃ほど人前で涙を流したことはありませんでした。
ただ、まわりも自分も、そんなに深刻に思っていませんでした。
ネタのようにあつかっていました。

こうして書いていて思うのは、我慢を強いる他人には、"今"とはちがう場所にいる"未来"の自分もふくまれていた、ということです。

「俺は我慢している、オマエも我慢しろ」

そのセリフを、"少し前"の自分が、"今"の自分に言います。

そうすることで、心と体を、頭が置き去りにしていきました。


6.憂鬱な普通

僕の中学・高校時代の朝は母親の怒鳴り声からはじまりました。

父親がうつ病でねこみがちでした。
その父を仕事にいくように叩きおこそうとする声でした。

父は僕が中学・高校生くらいにかけて、休んだり働いたりをくりかえすようになりました。
さいわいというか、公務員だったので、休みがかさなっても給料はもらえました。

母の言動への理解はほとんどできませんでした。かといって、表だってたちむかうようなことはしませんでした。
つかずはなれずで、ごはんを食べて、学校へいって、塾からかえって、ごはんを食べて、テレビをみて、お風呂にはいって、寝ていました。

ぼくが高校やめたり、大学に行かなければ、この場はまるくおさまるのかなと考えていました。
両親の不仲にたいする罪悪感でした。

その一方で、自分のいる環境への不満やいらだちもありました。
この2人は一体なにをしてるのか、なんてダメな奴らなんだと思っていました。

罪悪感と不満がうずまいた体はいつも重かった。自分はなにをしてるんだろうか、とぼおんやりとしたけだるい感じがまとわりついていました。

大学で東京にでて外から家を眺めるようになりました。

罪悪感よりも、親への不満や抵抗が勝つようになりました。

とくに、それらは母に対してでした。

母は「普通〇〇じゃろ」とよく言っていました。
“普通”というモノサシをふりかざしていました。

たとえば、父がうつ病で寝こんでいることは、母には“普通”ではありませんでした。

今でこそ、うつ病は社会的にひろくしられていますが、父が患ったったころは、ちがったように思います。
また、目にみえる体の症状がないため、サボっているようにみえなくもない。
多くの人がサボらずに働いている中で、休んで寝ていることは“普通"ではないことでした。

僕は、母や家族の言動の中の、“普通"という言葉や態度を、拒絶していました。

どうにか“普通"に抵抗しようとしていました。

でも、根っこの部分ではちがったかもしれないと、思ったりします。
無意識のうちに「“普通"の生活を送らなければいけないんだ」と思いつづけていたような気がするのです。

愛の反対は無関心だと、マザーテレサは言ったそうです。

僕は、関心は、ある条件を満たした者にしかうまれないと思っていました。

その場の“普通”を受けいれ服従した者にだけ、ごほうびとして、関心が生まれる。

他人に、誰より自分に、そんな考えをおしつけていました。


7.落胆爆弾

僕のいた会社は、スタッフのほぼ全員が、会社もしくはPさんがつくるものにほれて入社していました。
会社のイベントやお店で顔をあわせる機会が先にあり、顔なじみとなってから入社することがよくありました。

「全員が友だちなところが自分の会社の自慢だ」と、Pが税理士に言うのを隣で耳にしたことがあります。

僕はその空気にずっとなじめずにいました。
居心地のいい場所だなあと思えたことはありませんでした。

ただ、そんなものだろうと気にしていませんでした。
人間関係をうまくやれる方とも思っていなかったし、自分が社内でしてきたことに負い目もあったからだと思います。

関心があったのは、できる社長であるPさんとどんなおもしろいことができるのか、その一点だけでした。

入社当初のPさんから受けとめていた言動で、Pさんの人間性には、とっくに期待していませんでした。
社内・同僚との人間関係もアテにしていませんでした。

会社にたいして残っていた期待はPさんと何をするか、それだけでした。

会社に在籍した約5年のうち、後半の2年ほどは、Pさんと仕事をする割合が多くなりました。

形になるまでたどりついた仕事もあれば、うまくいかなかった仕事もありました。

それらの仕事を通じて僕の中にのこっていったのは、「ああ、こんなものか」といった落胆でした。

大学生のころに、建築に抱いていたのと変わらない願い、「Pさんなら僕をおもしろく感じさせてくれるにちがいない」という、僕の勝手な期待は裏切られました。

この時点で、会社にいる理由は、1つもなくなってしまいました。


8.ねじこみテリトリー

会社に期待するものがなくなり、やめるかやめないか、そんな話をPさんとしました。会社に期待するものがなくなってしまったということに、僕が気づくのはまだ先です。

結果的に、その時には会社をやめませんでした。

Pさんと話をする中で、無性に自分が何かよくないことをしていたという気になっていました。

懺悔のような気持ちになって、会社に貢献しなくてはと思っていました。
何かに反省したくなって、坊主にしました。
(一応言っておくと、無理やりとかではありません。それに、いつも髪型がキマらないと思っていたのでかえって好都合でした。結局今も気にいって坊主のままです。)

そして、それを機に、猛省の時期にはいりました。

会社でうまくいっていないこと、人間関係がこじれていること、それらへの不満が一転、自分に責任があるんじゃないかと思うようになりました。

やめると決める半年ほど前です。

なんだか自分の今までのすべてが悪かったような気がしてきて、沈んだ気持ちでいました。
1〜2ヶ月間、2日に1回くらいのペースで、1人で泣いていました。

どこでなにがどうなったんだろうと、自分の過去を思いかえしていました。

反省のプロセスの中で、自分が育った環境、特に母から受け取っていた愛情、母との間での愛着の形成に、自分の問題の原因をみようとしていました。

「愛着障害」なんて研究もあったりして、その本を読みながら、また泣いていました。

2つ、母とのエピソードで、忘れられないものがあります。

1つは幼稚園くらいのころ。

風邪をひいた僕はリビングで寝ていました。
晩ごはんを食べたあとの、ふとんに眠りにいくまでの時間です。

急に吐き気がして、その場で吐きました。

「ちょっと!なんでそこで吐いてるのよ!」
と母は怒鳴っていました。

吐いた先は絨毯でした。
母のお気に入りだったのか、新しく買ったばかりだったのか、そのあたりのことはわかりません。
父が、そんなことで怒るな、というようなことを言い返していた記憶がおぼろげにあります。

もう1つは、小学校1年生。

はじめての参観日。

お母さんが授業をみにきてくれて、まわりの子どもたちはテンションをあげていました。
いいところを見せようと、ハイ、ハイ、と手をつきあげて、先生からの発表の指名をまっていました。

僕ははずかしくて手をあげられませんでした。
答えるべき内容はわかっていたと思います。

そのまま発表することなく授業はおわりました。
母の運転する車に乗って家まで帰りました。

車内の空気が重い。
顔をみなくても、怒りが充満しているのがわかりました。

「なんで手をあげないの!恥ずかしいじゃない!」
と、また母は怒鳴っていました。

道中、僕は車内で泣いていました。
そこから母がどう機嫌を取り戻したのかはわかりません。

こうして書いていると、母のことがものすごくヒドイような印象になりかねませんが、そんなことは多分ないです。
家事全般は問題なかったし、手をあげられていたわけでもありません。

外から見ていれば、若くてキレイにみえる、やさしそうなお母さんだったと思います。
料理の盛り付けがキレイでした。
外食して「好きなもの食べ」とすすめてくれました。「お腹いっぱいになった?」とよく言ってくれていました。

ただ母はいつも余裕がないように見えました。
なにかに追いたてられているのか、焦っているような。

"普通"という場所に、どうにかして、いつづけないと気がすまないように見えました。
"普通"のテリトリーからハミだそうものなら、なりふりかまわず身をねじこみ、そこに陣取ろうとしていました。

僕はどうにかそれに応えようとしていました。

反抗期みたいなものはあったし、家庭内の言動にシラけてもいました。

それでも産んで育ててもらっていることへの忠義みたいなものは核としてうめこまれていました。

僕の日々の目的は、無意識のうちに、"普通"のテリトリーを死守することになっていたと思います。

その目的のために、何に対してもあるラインは超えていけるような「小器用さ」を身につけていました。
もう1つ、寸前のところでチャレンジをしない「慎重さ」も身につけていました。

そして、“普通”という結果を追い求めて、日々を噛みしめ味わうことをしなかった時間は、消化不良のまま、体と心にいすわりつづけていました。


9.不完全が通過点

2019年9月3日。
やめることを決めた日です。

ある仕事についてPさんと連絡をとりあっていて、この人には誠実さと愛を感じないと思いました。

そして、Pさんと一緒にはいられない、この会社にはいられないと思いました。

9月3日の、この時点まで僕は、Pさんをすべての面でリスペクトしていると思いこんでいました。

入社してから2年たつまでの、 Pさんから僕への言動を勘定にいれても、人間性もリスペクトしていると思っていました。

ところが、Pさんの人間性の不完全さをはっきりと意識したことで、タガがはずれます。

Pさんの人間性の不完全さと、これまでPさんから受けとめていた言動とが、つながりました。

そしてもっていたはずの期待、Pさんと一緒に何かをやりたいという思いも、とっくになくなっていること気づきました。

人間性でも仕事の面でも不完全さ、そして、不完全さにたいする許せない思いが、僕の中であらわになりました。

「完全な人間なんていない。」
ものわかりのよさそうな言葉です。

ただ、「誰もが不完全であることを認めること」と「不完全な人間と一緒にいることを認めること」には、大きなミゾがある気がします。

ここでは、Pさんが不完全だと認めること、と、不完全なPさんと一緒にいることを許し認めること、です。

僕は、Pさんが不完全であることを許せなかったのではないと思います。
不完全であること確認した上で、その不完全なPさんと一緒にいることを許せなくなったんだと思います。

「もう我慢するは必要ない、わざわざいる場所ではない」
といった具合に。

これも消化不良でした。
会社にいた4年と9ヶ月の間の、です。
そして、それ以前の、消化不良も関係していました。

そして、僕は会社を去ることを決めました。


10.イルミの針 乳首の味

反省の日々から半年くらい、会社をやめると決めてから1ヶ月ほどたったころ、それまで生きてきた中で一番うれしい日と思えることがありました。

それまでの便秘が解消されたような、そんな気分でした。

そのときに書き留めていたことをそのままのせます(個人名など一部を変えています)。

10月1日、日差しが強い日。会社の昼休憩、11時くらい。
ついさっきまで、〇〇事業の新入社員候補の面接をしていた。〇〇ちゃんも同席していた。面接相手は、〇〇ちゃんの後輩で、なんだかとても和やかに、いい時間にできたような満足感があった。
3日ほど前から始めた稲刈りをしながら、この半年で自分の中で起きたことが、特に、9/3以降に起きたことが、もう幾度目かわからないが、反芻されていた。
もうこのことで頭を埋めたくない、と、何度も思っていたが、やはりまとわりついてくる。
ただ、半年前に辞めなくてよかった、いや本当によかったと、そんなことに輪郭が与えられていた。あのまま辞めていたら、自分が全て悪かったんじゃないか、それが翻って、アイツが悪かったと責めてしまうような、そんな後悔。
10月だけど、まだ暑く、稲を手で刈って、藁で結んでを繰り返している時に、ふと、ハンターハンターのキルアの姿が浮かんだ。
イルミにさされた針を自分で抜き取るシーンだ。
少し前、自覚的な中では、人生の中でもかなりの部類に入る、憂鬱な期間を過ごしていた。
主には自分の育ってきた環境について、掘り起こしていたのだが、その時ずっと、キルアにとってのビスケが、自分にも現れないだろうかと思っていた。
「あんたのせいではない。あんたに戦いを教え込んだやつのせい。」
そんなことを言ってくれる誰かがいないだろうかと。
でも、少し乾いて、歩きやすくなった田んぼの中で急に、自分は自分で針を取り出せたんじゃないか、と、思えてきた。
すると、今まで感じたことのない、エネルギーで満ち溢れているような感覚になってきた。
喜びというか、うれしさ、生への圧倒的な充足感。
自分は人間関係、仕事にとても難があるのではないか、そんなことへの罪悪感が常に棲みついていた。
たぶんそれはどこかで正しい、間違えていない。
でも、あくまで自分の中でだか、たどり着いた場所は、決してそうではないのではないかという思いを、多く、自分の中に溢れさせた。
そして、それを自分でたどり着けたことの充実感。
今、なんだか、なんでもできるような気がする。
少し経って、職場に戻り、キルアの針の話を、〇〇ちゃん、〇〇くんに話した。
何か動かなきゃっていう、なんだかエネルギーに満ちたような焦りの波が迫ってくる感じ。
誰かへの恨みとかもなんだか消えてる。
むしろ感謝がいっぱいかも。
なんだろうこれは。

(補足しておくと、キルアは『ハンターハンター 』の主人公ゴンの相棒みたいなキャラクターです。暗殺を稼業とする家にうまれ、その殺しの才能は血族でもピカイチ。
イルミはキルアの兄。針をさした相手をコントロールする能力をもっています。キルアへのゆがんだ愛の結果、キルアが自分自身の命を第一に行動するよう、針をさしてコントロールしていました。
キルアは、ある敵と遭遇したときに、相棒のゴンを見殺しにして、自分の命を優先してしまう自分自身に、強い抵抗と罪悪感をおぼえます。
葛藤の中、自分に針がさされていることを直感したのか、自分の頭に指をつきたてみずから針をぬいて、イルミのコントロールから解放されました。)


11.残り物でどこに行こう

12月いっぱいで出社をしなくなりました。
たまっていた有給を1月、2月と使いきりました。

日々をすごす合間に、会社をやめて、今の自分になにが残っただろうと考えていました。

思いあたったのは、どうしようもならないときに手をさしのべられたよう気がしたものでした。

妻と娘であり、日課の数々です。
スパイスをつかった料理づくり、瞑想、ストレッチやヨガ・サッカーといった体を動かすこと、などなど。

やめると決めた翌日、妻に、仕事をやめようと思うと伝えました。

「おめでとう!」
と一言いって、妻は笑っていました。
(後日、お金があまりないことに遅れて気づいて、笑っていない時期が少しありました。)

1〜2ヶ月間、2日に1回くらいのペースで、一人で泣いていたというエピソードを伝えた時は爆笑していました。

会社にいるあいだに、ラッパーのつくる歌に本格的にハマったりもしました。どんな境遇でも自分を誇る。そんな姿にうらやましさをおぼえていました。

これまでの自分のまま会社をやめたのでは、おなじ間違いを繰り返すと思いました。
立ち返る軸、そんな言葉をもちたい、それを体に染み込ませたい。
そう思った結果、書道もはじめました。


12.引いた線では満たせん世界

僕はリスペクトをすることに、線を引いていました。

この人はリスペクトできて、あの人はちがう。
あの人のここはリスペクトできて、あの部分はできない。
今の自分はリスペクトできない。将来のリスペクトできる自分が大事。

そんな線を引く行為がみえて、僕の体と心は、Pさんを拒絶し母親を拒絶していました。

ただPさんや母にそういった思いを抱きながら、僕自身が誰よりも同じことをしていたのだなと、今は思います。

線を引いてる人にたいして線を引いていました。
世界のあらゆる人やモノが線を引いているようにみえる眼をもっていました。
誰にたいしても線を引いていました。

これは反省ではないです。
できるだけ、現状に目を背けないでいようとしています。

冒頭で、この文章の目的は「どこか別の場所へむかうため」と書いていました。

こうしてみると、別の場所へむかうために必要だったのは、ただただ丁寧に、誠実に、自分にむきあうことだったかなと思います。

自分に残った気がしたものたちは、線を引くことなく、包みこんでくれるようにみえる人やものでした。

その中には、ある行為の只中にいる自分もふくまれていました。
結果にむかうのではなく、行為に没頭することで、みえてくるものがあると知りました。

なによりも、なんだかんだ言いながら、よりそいつづけてくれている存在が、自分なんだなとも思いました。

自分は自分をいつも、まあるく包んでくれていました。

自分が、自分に、よりそってくれていること。
世界が、自分に、よりそってくれていること。

この当たり前なことが、どれだけありがたいことなのか。
この当たり前をプレゼントとしてうけとめることが、どれだけむずかしいことなのか。

...キレイゴトですね。
僕自身も、こんな言葉を自分で言う日がくるとは、29年生きてきて思っていませんでした。

ただ僕の体と心と頭が、世界を味わって、いまたどりついたと思えるのは、そんな場所でした。

そして、そこからみえる景色の中に、僕の弱さは隠れていました。

僕の弱さは、生きることを歓んでいないことでした。

生きることをためらっていました。
僕にとって生きることは、死という終着点にいきつくまでの、我慢の時間でした。


13.馬鹿げた名前

会社をやめるときめてからしばらくして、名前を変えたくなりました。

変えるというか、もう一つ、欲しくなりました。

弱い自分と一緒にいるための、新しい名前です。

カッコ悪くて、ダサくて、あがいていて、そのあがき自体が名指されながら運動しているような名前がいいなあと思っていました。

空回。
からまわりくうかい
略して、からっく。

瞑想を学ぶ中で仏教にふれることが多くなり、けっしてたどりつけない/あるかもわからない空(くう)のまわりをグルグルとしつづける滑稽な軌跡、そんなイメージが、ふっと浮かんできました。

空回りしているダサい姿。

そんな姿自体をさらして認めることから、もう一度はじめよう。
ああでもないこうでもないと、遊ぶ。味わう。

そんな気持ちで、からっくと、名乗りはじめました。


14.生まれたての命は包まれる

会社をやめるってことからはじまって、生きてきた29年の間におきたことを書き散らしました。

消化不良をだったものをだしきって、29年生きてきた分の針がぬけたような、プラスマイナス0の場所にいるような感覚があります。

まだ生後6ヶ月ほどの、生まれたばかりの自分の操縦法が、まるでわかっていません。

生まれたてとは言っても、体も心も頭も、まだまだ昔のままです。

ストレスを感じると、自分の爪で爪をはいでしまう癖は、なくなってはいません。

在籍していた会社や社長のことで腑におちていないことも多いです。
やめることを伝えた後のPさんのイヤがらせや陰口に、無性に腹が立って仕方がなくなります。

自分の弱さを認めるなんて言いながら、会社や社長への責め心は消えないし、自分が悪かったと責めて安心したくなります。

相も変わらず、反省したくなります。

ただ、弱い自分と一緒にいて、変わったことが1つあります。

すこしだけ、寝るのが、朝起きるのが、楽しみになりました。


15.排泄 MYSELF

あなたのうんちを、許して、認めてくれる存在はきっといます。

それは何かをしているときの、あなた自身かもしれません。

いや、どんな時も自ら命をたつことなく、一緒にいつづけてくれたあなた自身が、一番あなたのことを許して認めていると思います。

大丈夫です。

僕はこれから、誰かがうんちを出せるように、誰かが生きる歓びを感じられるように、自分ができることをやっていこうと思っています。

できれば、いつか。

うんちを出した後のあなたをみてみたいです。


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