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正解がないがしろにする
20201123
今朝、友人と話をしていて、AIの話になる。
ひょんなことから、回転寿司のスシローが、AIを導入して、食品ロスを減らしたって話を教えてもらう。
そこから話題はAIへ。
AIが握った、もしくは選抜してくれた寿司は果たしてうまいのか。
自分の好みというかデータ、経験を分析しきって提供される寿司。
まあ、たぶん、うまいんだと思う。
ただ、その違いというか違和感をキャッチできるのか、その体験の違いに待ったがかけられるか保留できるのかどうかに、重要な何かはある気がする。
先日編集していたZINEの中で、恋人・結婚相手をAIに探してほしいっていう意見があった。
自分のことを分析して、失敗しないまでも、最低限のラインは超えるというか、自分に見合う土俵に立った相手を見繕ってほしいと。
その一連の言葉への違和感がずっと残っていて、寿司の話でまた思い返す。
AIは9割9分、99.9%は、問題を解決するんだと思う。もしくは、正解を教えてくれるんだと思う。
ただ、その残りの1分だったり、0.1%とかに、どうしたってAIでは解決できない問題が潜んでいる気がしてならない。
その0.1%に、存在それぞれにとって固有の身体性であったり、ゆらぎ、時間をへることによる気まぐれみたいなモノを孕むんだと思う。
この0.1%を尊重するために、あるいは、99.9%を優先して0.1%をないがしろにしないために、創作や芸術はあるのではないか。
言葉をかえれば、選ぶ/選ばれるっていう既存の選択肢を絶対なモノとして正解をを選び出そうとすることは、自身にとっての最もコアな0.1%を無視することになるのではないか。
ここでの芸術はオシャレさとか優雅さとかではないはずで、生き抜くこと、適度に息を抜きながら生き抜くことをさす。
みずからの姿勢で、人生をつくりかえ味わい尽くしてやろうという気概。
そういう意味で、ボブ・ディランの言葉は腑に落ちる。
「詩を書くからといって必ず詩人ってわけじゃない。ガソリンスタンドで働いている人の中にも本物の詩人はいるよ」