いちばんのりかいしゃ (坂口恭平『躁鬱大学』)
20200519
坂口恭平さんの『躁鬱大学』最終回を読む。
自分のこと、妻のこと、が書いてある、と焦る笑
僕にとっては妻が理解者/編集者で、妻にとっては僕なんだと、勝手に思う。
夫婦で、お互いを編集しあう関係って、前例があるのかな。
基本的にはスーパー風通しのいい間柄だけど、距離が常に近すぎる分、淀んでしまった時に困ってしまうから、知りたい。
躁状態だと、「奇跡だけがあなたの元にやってくる」。「躁鬱人にとっては奇跡は日常」。
そんな奇跡オンパレードは、まわりにとっては受け入れがたい。
自分のため、まわりのために、できることは何か。
それは書き留めること。
このあたりの内容、とても合点がいく。
僕の日常は、ただひたすらに発見を求めている。その発見をひたすらメモしつづけている。
発見をした気になったこと、それをメモすること、それを楽しみに生きているといっても過言じゃない。
その中で調子のよさそうなものを妻(理解者/編集者)に話す。
もしくは、妻との交換日記にかきこみ、反応を待つ。
それら書き留めたものとの触れ合い方を、次は考える。
今だと、書をかく、ラップ/詩。こうして、ひたすらにSNSに流すことも一つ。 『躁鬱大学』を読んでいて、僕は躁鬱に近しい資質を持っちゃってるなと、知る。
病院の診断を受けたことはないから、病名としてわからない。
ただ、鬱については、完全な自覚がある。
躁については、どうしていたんだろうと思う。
やっとのこと最近、鬱々とした抑圧のフタが外れたから、その反動で元気なだけかもしれないなとも思う。
ただ常に隣に、理解者としての妻がいたことが大きかった気はする。高校生の頃に出会い、結局今までずっと一緒にいてくれてる。
あとは、育った家庭をはじめとした、これまでの環境への自分のむきあい方。これもたぶん大きい。
抑圧を生んでいたものとの別れ、それでいて一番の理解者である妻との発見に満ちた日々。
最近、すこぶる調子がいいのは、それらがバッチリ揃って、自分の体心頭を第一優先にできているからかなと。
他には、韻を踏みまくる(ダジャレ)が躁状態のスタートっていうの、笑った。
韻を踏んでる時は上向きなんだとまわりに伝えます!
気づきやあらためて知ることいっぱいの、幸せな時間でした。
ありがとうございました〜
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