在ることを損なわない
20210227
朝、外に出る。
フッと見えた景色をキレイだなあと思う。
いつも目にはしてたはずの場所が、なぜだかステキに見えた。
首を左右にふれば別の景色も見えるはずなのに、キレイに見えたのはついさっきの角度だった。
そのことを不思議に思う。
見えてるモノも聴こえてるモノも触れるモノも、淀みなく流れているような気がするのに、なぜか急に気になるモノが浮かび上がってくる。
やってきた感動の秘密を知りたいからなのか、誰かに伝えたいのか、記録しようとする。
赤ん坊が泣いたりするのも、何かに魅力を感じるのも、多分変わらない。
お腹が空いたのか、眠たいのか、うんちか、その瞬間身体にやってきてしまったものを、泣くってかたちで記録する。
そうやって積み重なる記録が、たまに作品になったりする。
ついさっきまでフラットだったはずの世界が急に傾く。喜怒哀楽に代表されるような感動が世界に地形をつくる。
そうやってできた地形を、できるかぎりそのままに記録したくて技術が生まれる。測量もしくは包装。
この時、すでに記号化された、もしくは、こう呼べばいいと共通の理解がある何かを記録して感動とすることはたやすい。
それは感動ではないのだろう。
感動ってのはこういうモノだよと、誰かに渡されたモノを代用しているだけ。
誰か他の人の感動ではあるかもしれないけれど、ある個の中にたしかにあったはずの、感動ではない。
そんな個の感動を、できるだけ丁寧に測ろうと、包もうとすると、いつのまにか固有の技術に至る。
いや、技術こそが認識、技術こそが世界の捌き方/分節の仕方だとすれば、固有の技術=固有の認識=固有の感動、となる。
感動と技術が、卵と鶏、どちらが先かはわからない。
ただ、感動=技術の地形の下、地層には在りつづけること、在るってことへの絶対的な承認は眠ってそうだ。
在った上でしか、技術も感動もない。
娘のういはブラブラと散歩するだけで、感動してる。
こおり!かたつむり!
たぶん今の感動の記録の仕方は、僕や妻、保育園のお友だちや先生から植え付けられたモノだろうと推測する。
そうであっても、目につくのは,感動することにためらいがないこと。
たぶん、このまま感動を積み重ねれば、彼女にとっての大切な感動を手にする日も遠くないだろうなあと思う。
親として、彼女が在るってことを損なわずにいたい。
そして、いつか彼女が記録の技術を手にした時に、彼女の感動をおすそ分けしてもらえたらうれしい。