
おなかをみせる
20201030
愛犬ナンの日々の仕草をみながら、背中でみせることと同じくらいに、お腹でみせることを大切にしたいなあと思う。
このところPCにむきあう時間が増えた。
友人がつくるzineの編集作業に参加させてもらってる。
といっても、僕の体は、連続で1時間30分以上PC作業してると、悲鳴をあげるようになっているので、1日にやれる時間はたかが知れている。
それでまあできる時間でガッとやって、フィードバックもらって、また翌日、を繰り返す。
我ながら、特に本の編集とかしたことない割には、ようやっとるなあと思う。
自分で武器として自覚しようとしてることの一つに、器用さ/学習能力がある。
器用さ/学習能力が発揮されているときに、快感を覚える。
一方で、専門としてある一つの職業を1日ぶっつづけは、僕には難しいなあとも思う。体が拒否する。
専門っていうポジションをもたない器用さの可能性を考える。
専門でないがゆえに、隙間に立つ。
隙間であるがゆえに、専門性の関わりとは別の仕方で、人やモノと交わる。
専門や職業として関わるのではないからこそ、見せられる姿があるはずで、その姿にこそ可能性をみいだしたい。
そんなことを考える時に、背中とおなかをどうみせるかが大切かもなと、飼い犬の仕草をみて思う。
専門性は背中をみせることに特化しやすい。背中で引っ張る。自分の領分の技術で引っ張る。
とても尊いことなのはまちがいない。
ただそれと同時に、おなかもみせられる専門性もあったらいいのになあと思う。
ゴロゴロと気いぬいて、なでて〜ってやってる。
あなたが健やかであることを尊ぶ。
あなたの背中と、それ以上におなかに敬意をはらう。
器用さで人と関わる中で、背中とおなか、そのあり方と敬意の持ち方を僕自身が体現しつづければいいのかもしれない。
そういう可能性を、愛犬ナンと、編集作業の時間から教わる。