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盛らない
20210306
SNSを頻繁に更新するようになっておよそ1年くらい経った。
大学時代からTwitterはやっていたけど、特別更新するってわけでもなく、instagramもFacebookもアカウントを持ってるだけって程度だった。
それをとりあえずひたすらに、淀みなくアップするって方向に変えた。
はじめた時どんな想いだったかよくわからないけれど、ただただ淀まないようにってことを想っていた気はする。
それがどういうことだったか、今僕から出る言葉で言えば、いかに盛らずに生きていくかっていう実践であり訓練だったのかなと、ふと想う。
別の言い方であれば、いかに等身大のままでカッコつけるか。
カッコつけるってことに僕は懐疑的なので、さらに言い換えて、そのつどの身体の中に感動を見出すって具合だろうか。
SNSにアップする時点で他人の目を気にしてしまっているだろうから、どこまで等身大のままでいられるかというと、なんとも言えない。
妻や娘とケンカしたり、強い態度を取ったりってところも、その場でパッと残せない(ネガティブなこと、ネガティブの渦中にいることってのは、なかなか写真などで残しづらいんだなと、そんなことを発見した気がしてうれしくなる)。
ただ、ネガティブな方向は言葉で、ポジティブな方向は写真や映像で、記録してはできるだけ放ってきたように思う。
最近は、ある程度形式みたいなものが決まってきて、つくること(書く、料理、仕事など)と家族(妻、娘、犬など)に焦点が合ってきてる。
盛るってのは、基準が外にある。
その基準に到達してるように見せようとする。
そこに力みであったり、緊張があるのだろう。
いつのまにか焦点があってきた、つくることと家族の2点について盛らないこと。
常に移り変わる、実体がありそうでなさそうな、我が身を盛らないこと。
盛らないっていう健康がありながら、経済があること。
それが生活ってことなのかもなと、SNSの投稿の日々に教わっている気がする。