恩返しよりも恩流し
20200814
僕が欲しているのは、“恩返しよりも恩流しができる環境”なんだなと、今日妻のツイートをみながら思った。
「自分をつくりかえようと思ってて」
とすこし前、友だちに話したことがある。
それはすこし違ったかもと、ふと思った。
ある意味であってるし、ある意味でちがってる。
つくりかえるのは自分の認識の仕方であって、自分自身の状態では必ずしもないということ。
自分の認識の仕方とその時々の自身の状態を照らしあわせて、快適さを追い求める。
昨日坂口恭平の『躁鬱大学』を読みながら、しみじみと思った。
読みなおすたびに、自分のことしか書いてね〜と驚くわけですが、この度もそう。
思い返すと「生きてるの暇だわ〜」と思いつづけていた。
その暇を埋め合わせるために、社会のルール、と自分が思いこんでいるルールに、目配せをしてすごしていた。はたからみてそうは見えなかったかもしれないけれど。
今はその埋め合わせを、限りなく自分が快適にすごせることだけに使えている。
強いて言えば、葛藤があるのは子育てくらいだろうか。
飽きたら離れるし、窮屈だったら離れる。快適さがそこに感じられなくなったとなれば離れる。
昔は一応、距離をとった後に、勝手に罪悪感にさいなまれていた。
ただ、それは社会の側のルール、不義理感に気を遣っていただけであって。
相手との一対一の関係上で損失をうむのは申し訳ないけれど、社会というか自分がつくりあげたルールを気に揉む必要はない。
すくなくとも自分には。ただのno-deal。
子育てに葛藤があるのは、娘だけは距離のとり方がよくわからなくなるから。
本当にイヤなら離れればいいのだろうけど、その踏ん切りをつけたくない自分がいる。娘との心地よいもいっぱいある。それと同時にコイツマジか...みたいなしんどい時も山ほどある。
まあとりあえず、距離のとり方を模索してるのは子どもくらいであって、あとは自分の心地よさ、快適さを優先してしまえばいい。
その上でつくりあげられる関係性の中にだけ身を浸していたいなあと願う。
そうして、そのめぐりあわせのありがたみに感謝しつつ、その恩は別のどこかに流す。
“恩返しよりも恩流し”ができる環境をつくる。