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育つことを保つ

20200909

娘の小学校どうするかねえ、と妻と話す。
それでしみじみと、保育園ってありがたいなあって話になる。

育つことを保ってくれる園。
これ以上望むことがあろうか。

学校は教育なんだと思う。教えて育てる。
僕の親も、妻の親も、学校の先生だった。

僕の父親は高校の先生。妻のお父さんは小学校の先生。

懸命に働く姿も、消耗しきった姿も、みてきた。
だからこそ感じてしまうのかもしれないけれど、子どもに教えることなんて何があるのだろうか、と思ってしまう。

僕も妻も、親からの影響か、どこか教育めいたことに関心がある気がする。

そういう時に自分に言い聞かせるのは、教えるなんてことはできない。むしろ、してはいけないのではないか、っていうこと。

そんなことを考えながら、学校という現場について思い巡らせると、教育の場ではなく、保育の場としての側面を強めていくのかもって気がしなくもない。

時代はごろんごろん移り変わる。

これはこうです、っていう確からしい情報の伝達は、人よりもPC・AIの方がむいている。

ある科目のある範囲を、日本語で一番おもしろく伝えられる人は、ナンバーワンが1人いれば十分になる。動画で配信すればいい。

PC、AI、ナンバーワンに共通していそうなのは、確定しているもの/確からしいものを扱うのに長けているということだ。

そして、確定しているものの扱いは、序列がつきやすい。オリンピックの各競技みたいな。

微分についての情報を正確に伝える選手権。
物語の読み方をおもしろく伝える選手権。

それに対して、幸か不幸か、学生一人一人は、確定しえない。常に揺れ動く。
〇〇好きグループとか、〇〇苦手組みたいな、安易なカテゴライズは許さない。

それぞれの学生の複雑さは、どうしたって複雑なままに、そこにある。
その複雑さを受容することに、現場としての学校の強みがあるのかなと思う。

教育ではなくて保育。

複雑さを複雑なままに保つ。

複雑なままに、グングンと伸びて、花が咲き、次の種ができる。

その回転をただ支え、回転のキッカケを与える。

そんな場で育つ子どもの姿をみてみたかったりする。

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