生きる質感
20210410
「ういの夢は植物屋さんと(『魔女の宅急便』の)キキになることなの!」と娘が言いはじめた。
キキになるってのは昔から言っていたけれど、植物屋さんが加わった。
このところ、娘は毎日のように、植物を育てる動画をyoutubeをみて、家にある植物に触れている。
動画の中での進行役が、パンダのぬいぐるみってのがとても大きいのだとは思うけれど、随分と気に入っている。
それで、自分も育てたい、それを売ってみたいと思っているようで、4歳にしてすでに商才らしきの片鱗をみせつけてくる。
「カカ(妻)がつくった植木鉢に植物ちゃんいれて、一緒に売ればいいねえ」とか、
「植物育てる動画も撮ろう!そうしたら買ってくれた人育てやすいよ!」とか、
楽しげに言っている。
妻も僕も自営ってのが大きいのかもしれないけれど、自分が何かをして、その価値を託す、共有するって感覚が随分あるなあと、我が子ながら感心する。
少なくとも僕が4歳の頃にはそんなもの欠片もなかった。
というか、20代後半、つい先日まで、お金ってモノへの意識や、生きるってことへの意識は希薄だった。そう断言できる。
夢なんてもったことがなかった。というか今もおそらくない。
まあ夢をもってるから良いとか悪いとかではないから構わないのだけど。
ここで夢って言葉を使って触れたいのは、生きるってことへの質感かなと思う。
生きるってことへの向き合い方であったり、その実感、受け容れ方。
僕は今でも、いわゆる世間で夢と言われるような、なんだか華やかでイケてる目標は持ってない。
ただひたすらに、1日1日、一瞬一瞬を、生きる歓びに満ち満ちた状態になってるってことを肚に決めて、試行錯誤してる。
歓びに満ちた状態があった上で、それらを愛と勇気って形に変換して、関わり合える範囲におすそ分けする。
その実践の日々を満喫することが、自分にとっての夢だろうか。
我ながら随分と面倒なことを書いてるなと思うが、そんな奴なのだから仕方ない。
夢は日々の生を支えるためのモノであって欲しいと、個人的には思っている。
社会的にアピールするためのモノでもなければ、生を押しつぶさんとするモノでもなく。
そういう意味でいけば、娘の夢は日々を満喫することに寄り添ってくれているように、今のところ僕の眼にはみえる。
それが父親としてというか、すぐ隣にいる一人の人として、うれしい。
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