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努力と我慢

20200616

今回のコロナ騒ぎ、一番負担がおもく、それでいて一番考えをめぐらせたのは、娘のういと一日のほとんどの時間をすごしたことだった。

そして、努力と我慢の境目はどこにあって、どうやって見極めるのか、それを考えていた。

今まで、娘と多くの時間を2人ですごすことはあったけど、ほぼ一日中となると、はじめてだった。

保育園の登園自粛と、妻の仕事はそれなりに動いていたので、娘のういと父親の僕、2人の時間が多かった。
都市部に比べればだいぶ様子は違うだろうけど、どこかに遊びに行ける場所もなく、体力全開の娘と時間をもてあましていた。

一日一日、キッツいなあって日がよくあった。
まあ単純に僕自身のキャパの小ささによるものではあった。

そのキッツいなあって時に、これはどうやって乗り切るか、と考えていた。
そこで、努力か、我慢か、その境目の話になる。

イヤなことは、生きてりゃいくらでもある。イヤなことをゼロにできればそれに越したことはないけど、難しい。

そんなことは承知の上で、そのイヤは我慢で乗り切るものなのか、努力で乗り切るものなのか。

いま自分がどちらサイドにいて、そのイヤなことに向き合おうとしているのか、自覚できるかはとても大きいと思う。

我慢なのか、努力なのか、どちらにいるかで、まわりに対しての負担、どういう対応になってしまうかが変わると思うから。

僕は過去に、我慢してしまっていたと思っているから、どうにか意識しようとしている。

努力と我慢。

ここでの努力は、自分にとってはより大きなYES(目標みたいなもの)のために、目の前の自分の欲望にNOを宣言できること。
サッカー選手になるために、目の前のキツいフィジカルトレーニングをこなすみたいなイメージ。部活で一勝するためでもOK。目標の大小は関係ない、というか大小などないと思う。

それに対して、我慢は義務に近い。誰かが我慢してるからみたいな空気を読むことだったり、知らず知らず自分で自分に課してしまっていること。

我慢は、イヤイヤの義務感だから、自分以外が我慢していないことが許せなくなる。「なんでアイツだけ!コッチはやってやってんのに」となる。

努力は、キツくても、そのキツさのおかげで目標に向かってるっていう意識につながりやすいから、その場やまわりへの感謝につながるような気がする。「◯◯のおかげだ!ありがとう」と。

今回の娘との時間、我慢か努力か、どう乗り切ったか、正直よくわからない。

言っても、僕の住む場所であれば、4〜5月くらいの2ヶ月ないくらいの時間だった。

ただ、「「生きる歓び」に満ちた「愛」と「勇気」の人」という理念(燃えるYES)をかかげているから、そこにむけて娘との向き合い方、努力側のステージにいられたのではないかと思う。

そして、キツい時間も、発見につなげられれば、ありがたい。

我慢しないこと。

イヤなことが、燃えるYESのためのNOなのか、確認すること。

我慢してしまっているかどうか、一歩一歩ゆっくりと確かめながら、歩をすすめること。

その一歩一歩を確認できる時間を、自分で確保するよう努めること。

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