おもしろいのモノサシ
20200823
“おもしろいか/おもしろくないか”っていうものさしを大切にする。“できる/できない”っていうものさし以上に。
「得意なことがあったこと〜今じゃもう忘れてるのは〜それを自分より〜得意な誰かがいたから〜」ってうたってる歌がある。
この歌詞でうたわれてる人は、オモローものさしよりもデキルものさしを優先順位高くしてたのかなとおもう。
デキルは、どこかで、“だれかよりも”っていうのがまとわりつく。社会で生きることの一側面かなとおもう。
デキルってことは、モノゴトを好きなことにもオモローにもむすびつくから、とてつもなく大事ではある。
ただ、一番はじめの好き、初期衝動ともいうべき瞬間は、デキルかなんてものさしは持っていなそう。
オモロー、心踊りワクワクしてるかどうか。
オモローは自分の内側を大切にしていて、デキルは外側を大切にしている。どちらかというと。
どちらも大切なんだけど、外側を優先しすぎると、内側をおいてけぼりにしてしまいがちかなと。
“個の存在が幸せであること以上の世界平和はないんじゃないか”と、僕はおもってる節がある。
内側・外側どちらもあることは頭の片隅におきつつ、内側を優先的に大切にしたい。
サッカー選手・李忠成のyoutubeをみた。鄭大世選手とのインタビュー動画。
その中でのドウグラス選手の話。
ドウグラスは人生で一度も、だれかと比べたり、だれかに勝ちたいとおもったことがないらしい。
本人の積み重ねもあるだろつけど、どういった環境で育ったかも大きいのだろうなと想像する。なにが当たり前になっているか。
「他人と比べない、あなたがどうかが一番大切なこと」という当たり前をどうやってつくりだせるのか。
それで日々、妻や娘、自分自身へのの対応をおもいうかべる。
例えば娘。
「よくできたね〜」とかいっぱい言っちゃってるんだろうなあとおもう。
子どもは、親がなにに関心をもっているかを敏感に察知してる気がする。
デキルってことを多用するのは、それだけそこに関心があるから。
もし「よくできたね〜」のかわりに、「どうだった?おもしろかった?」と言っていれば、子どもの関心は、デキルよりもオモローにむかうんだろうなと想像する。
そして、子どもにそうあらんとしたければ、自分がそうなるのが一番はやい。
自分のオモローを意識にあげオモローの姿でいる。まわりのだれもがオモローで生きてる。子どもにはオモローしか知らない世界が待ってる。
自身がオモローでいつづけることでできる世界平和を願って、今日も皆様に幸あれれ。