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毎日のための夢
20201126
先日、久々に締切のあるワークをやってた。
取り組みながら、締切ってなんで必要なんだろうかと思いを馳せる。締切がないとできない仕事、締切がないと協働できないってのは何なのだろうかと。
自分でやること、妻とやることにはほぼほぼ締切ってモノがない。
その日できたベストで満足する。そこには無茶がない。その繰り返しが、結果的に、外に向けて見てもらいたくなるモノになる。
日々取り組むことの延長線上に、ある結晶としての作品があってほしい、と個人的にはおもう。
そこには自律した歩み、自由がある。
一方で、締切が歩みのペースを縛り、まとめあげるケースもある。外から律する存在としての締切。
これはイメージだけど、締切のある仕事には打ち上げがある。やりきったぜと発散する(打ち上げがいいとか悪いとかではないです)。
この打ち上げに向かうがための締切っていうのは祭りなんだと思う。
祭り(=締切後の打ち上げ)をやりきるために毎日があるというか。やった感を全身で浴びにいく。
祭りってモノがどういういきさつで生じたものかはわからないけど、いまここで書いてる祭りは、毎日を捧げた結果としてある。毎日を犠牲としてるとでも言えるだろうか。
できるだけ、毎日のために祭りがありたいと願う。
淡々と、日々できることをやりきりながら、そのエネルギーの充填として、祭りがあるというか。
こんなことを巡らせながら、毎日を犠牲にする祭りっていうのは、夢ってモノの残酷さも同じかもと思う。
夢が設定されることで、毎日が奮い立つならステキなことだと思う。
でも、その夢に向かうがために、毎日を我慢の連続として過ごさないといけないとしたら、こんなに辛いことはない。
やりたいと思ってるはずのことに、なぜか蝕まれる。身を引き裂かれる矛盾。
そんなことを妻に話すと、精神科医の神田橋篠治さんも同じようなことを言っていたと教えてもらう。
「夢が今を充実させるための道具だったらいいんだけど、今が夢のための道具になったらいけない」