好き嫌い
20201215
妻と娘がパンを買ってきてくれた。
「ういはうさぎさんのいちごジャムのパンにしたの!いちご大好きだから!」とゴキゲンで教えてくれる。
好きってことが、なんとも堂々としていて、まぶしい。
自分は、そしてきっと多くの人も、その好きがわかんなくなっちゃって困ってるし、困ってきてんだよ。
と、思ったけど、冷静に思えば、食べ物の好みは、わりと誰もがハッキリしてそうとも思う。
食べ物なら好き嫌いってことを堂々と言えそうなものだけど、他のことだと言えなくない感じがあるのはなんでだろう。
と、今書いてみて、思い出す。
食べ物の好き嫌いがあることって、なんかダメなことみたいなのが、僕の幼少期はあった。今の子どもたちがどうなのかわからないけれど、少なくとも僕の育った環境ではあった。
まあ、好き嫌いがよしとされなかったのか、食べ物を残すことがよしとされなかったのか。それはよくわからない。
ただ、いずれにせよ、その場の心身の状態よりなにか別の規範が優先されていたことは確かだ。
嫌いってのは、味が合わないのかもしれないし、体におきた異変を察知して食べたくないのかもしれない。それを食べるのがいいことだって押しつけてたのは何でなんだろう。
残すのだって、それは褒められることではないかもだけど、そもそも各自にあった量や食材をそれぞれのペースで食べられるような仕組みになっていたかといえばあやしい。
食べ物の好き嫌いくらいカジュアルに、いろんなモノゴトの好き嫌いをわかって主張できればいいのに。
って思って娘の言葉を捕まえていたのだけど、そもそも食べ物の好き嫌いさえ、表明しづらい環境ってのがあったのかもしれないと、そこそこに愕然とする。
そして、同じことをしかねない父親として、教育のむずかしさをみる。