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体の連鎖としてのことば

20201101

日々筆やペンで文字を書き留めることを好んでやってる。

ただ、書やリリックとして短いことばを書くことと、ノートやiPhoneによくもわるくもダラダラとことばを書くことは、明らかになにか違う。

そんな中で、ふと、紙がある世界と紙がない世界で、思考の展開はどう違っていただろうかと気になる。

今僕が生きている世界は、文字を留めておくのに苦労が少ない。紙が大量にあったり、デジタル環境だったり、文字のコストがほぼゼロ。

僕はその恩恵にあずかりながら、思考の展開を広げていくことが多い。

一方で、かつては紙が貴重な、もしくは紙そのものがない時代もあった。

思考の痕跡が文字として留めておけない、留めておきづらい時代。

そんな時代に、書き損じた原稿用紙をまるめてポイっなんて、なかなかできそうにない。

思考が紙面上では展開できない、そんな頃の知の形式はどんな具合だろうかと想像をふくらませる。

そこでキーになるのは、体なのかなあと当たりをつける。直感的な、ロジカルな辿り方とは別のモノ。

僕の身近なところでは、妻の生業である鍼灸、東洋医学なんてのは、まさにって感じがある。ことばの連鎖ではなく、感覚の連鎖としての見方。

ソクラテスの対話っていうのも、同じ類かとしれない。お互いの声、体をつきあわせることで、それぞれの枠外へ向かう。

紙面上の水平的な広がりではなくて、垂直的なもぐっていくような行為。

果たして自分の関わることばの中に、垂直的な側面はあるだろうか。

詩、書、ラップの中に、そんな香りを纏わる。

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