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ありがとうと余計なお世話
20200913
子どもは親をえらんで生まれてくる。
そのてのことばの並びが僕は苦手です。食べようと口にしてもはきだしてしまう感じがある。
生んだ者たちと生みおとされた者。
親と子の関係っていうのはそれ以上でも以下でもない。
親と子ほどに、ドラマティックで、感動的に、暴力にみちた間柄を、僕は知らない。そこに甘美な夢はない。
自分のあずかり知らないところで、生みおとされている。
その事実を受け容れたうえで、次に気になるのは、生かされているということです。
ある年齢までは誰かからの支援がないと生きられないって意味でもそうだし、誰かの恩恵をもらっているって意味でもそう。
誰かっていうのは、親であったり、世間や社会、国家、動植物、自然、神などなど。どうやったってわかりっこない何かに、生かされている。
生のスタートは、当人にとっては、必ず受動的。生みおとされ、生かされている。
その点は誰もが平等にはじまる。
そこからどういう道をたどって、幸せを見出す人と、不幸を見出す人がいるのか。幸不幸は、肉体的な限界を強いるもの(暴力や飢餓など)以外は、あくまで捉え方に関わるという前提で。
いま、なんとなく感じるのは、受動であることを、
「プレゼントありがとう!」と受け容れるか、
「余計なお世話だよバカヤロー」と受け容れるか。
生みおとされ、生かされていることが、希望なのか。はたまた、絶望なのか。
ありがたく感謝することなのか、課された義務として我慢することなのか。
ここに大きな分岐点がある気がしている。