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生きることはフロンティア

20201107

妻は一度も就職したことがない。

多少のバイトと、鍼灸の師についていたことはあるが、企業で勤めたという経験がない。

そんな彼女の、企業で勤めたことがない経験なり実感は、とても尊いものなのかもしれない、とふと思う。

このところバリバリ働く女性陣とコミュニケーションをする機会が増えて、よりそんな気がする。

妻と一緒に本格的に仕事をするようになった期間は1年ほど。そのわずかな期間に驚かされることが多くあった。

「そっかここで無茶したくないのか(サラリーマン時代の僕なら平気でアクセル踏み込む)」

「そっかここでストップしてやめれるんだ(サラリーマン時代の僕ならオカシイってなっても止まれない)」

僕はサラリーマンだったとはいえ、ガチガチの企業とかではなくて、極小ベンチャーだったから小回りがきく部分は多くあったと思う。

ただそれでも、妻の個人での働き方に対する姿勢とベンチャー勤務していた僕の働き方に対する姿勢は明らかに違っていた。

僕は一度ベンチャーって組織に所属していた。そしてその経験が一つの基準になる。働く時間のペース。お金について考えるペース。それらをベンチャーで働いていたときの振れ幅の中で、自然と視野におさめようとする。

その点、妻には外から渡された基準がない。基準は内にある。自分の健康や心地よさがベースにあって、その上で娘や僕の健康をかんがみる。

バリバリ働く女性陣が多く口にしていたワードに「キャリア」ってのがあった。「成功への道筋」くらいな意味だろうか。

誰だって失敗し続けるよりは成功したい。キャリア、成功を意識することはとてもわかる気がする。

ただ「キャリア」の到達点が、すでに会社や社会にあるような、既存のゴールになってしまうのはなんでなのかなあと不思議だった。

男性的な仕組みに不満をもちながら、目指すゴールは男性社会の極みみたいな「キャリア」。

とても優秀というかデキル女性たちだからこそ、「男が船頭してる船なんてどうせ潰れるんだから、女は女の船の操り方をマスターするわ。」くらいに余裕ブッこいててもいい気がする。

僕はへんちくりんベンチャーしか知らないし、働きマンな彼女たちのこともすべては知らない。

ただ、ほとんどの企業ってやつは、男性性とでも言いたくなる価値観が陣取ってんのかなあと思う。

妻からは前職で体験していたような男性性らしき暴力をまあ感じない。企業や組織がもってしまう当たり前がホントにないんだと思う。

というか、男性性やら女性性なんて区分けも本当はいらない、理解しやすいから使ったるだけ。

どうせなら、男性性とか女性性とかじゃなくて、人生にフォーカスしたい。

自分の人生に前例はない。だから正解もない。生きてるだけで常にフロンティアをゆくことになる。

陽が当たろうが、路地裏だろうが、堂々とみずからのフロンティアを邁進していく。別に何かを成すとかではなくて。

いろんな人のそんな姿をみたいなあと思う。もちろんそれは自分自身も。

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