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自分で辞められた

20200910

前職に感謝していることの一つは、自分で仕事を辞められたことだ。
クビでもなく、潰れたわけでもなく。

クビになるような仕事ぶりだったか、は自分では判断がつかない。

成果も人間関係もうまくいっていない時はあったから、そこでクビにするしないってよぎることがあってもおかしくない気はする。

ただ、仕事の出来不出来よりも、100%を出さずに時間がすぎていたことが、自分としては気になる。

別に100を出さず手を抜こうとか考えていたわけではない。はず。

その頃出せるMAXはだしていた。でもそれは今出しうる100のうちの50とか、なんなら3割とかだったんじゃないかって気がしてならない。

ブレーキを踏んだままの100。
まあ、100のうちの仮に30でも、お金はうごいていた。どこかの誰かが求めていることが成し遂げられていたのは間違いない。

そういう意味では、いまの僕よりははるかに、生産性が高いというか、社会的に意味をなす存在だったはず。

社会性を、捨て去ったつもりはないけれど、優先順位をおとして得たのは、動物性とでも言うべきものだろうか。

動物性と社会性も、どちらがいいとかではない。そんなこと決められるはずがない。というか何事も確定させるなんてことはできない。という確定。

でも決めないといけないときはやってくる。その決め方に、動物性と社会性が現れる。決めるというよりも秩序立てるといった方が適切だろうか。

社会性は、すでに手にしている秩序をもって、問題にむきあい解決する。

動物性は、何も持たず場当たり的に、無秩序のまま問題を解決する。

社会性と動物性のはざまで揺れ動こうとする者は、中途半端に、もっともダラシなくみえる。優柔不断というかいい加減。

基本は常にゴロゴロしている。寝転んでいる。暇人。
奴は中途半端に悩まない。軟体動物のごとくグニャグニャ。

ただ、ひとたび問題をみつけると徹底的に悩む。そして秩序をつくり、問題を解決する。そして、つくられた秩序はグラグラと崩壊して、また寝る。それを繰り返す。

エントロピーが低いとも言えるだろうし、空だとも言えそう。

餌をさがす野良猫スタイル。

動物性を維持したまま、必要な時にだけ、社会にまぎれる。

話がずいぶんそれてしまった。
感謝だ。

自分で辞める選択肢をもてたことで、主体性をもって、蓋をひらくチャンスをもらえた。

それがパンドラの箱なのかどうかはよくわらないけど、まあ今のところはしあわせです。

(自分で書きながら、捕まえきれていないけど、大切にしたいことが書いてある。そのドライブを与えてもらえたことにも謝謝)

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