夢は夢のままに実践してれば社会が勝手に認める
20201013
今朝開脚前屈がぺったあとできるようにストレッチをしていた。
日々体への関心としてストレッチするんだけど、とりあえずの目標として、このところ開脚前屈を設定している。
別に誰に頼まれたわけでもないし、なんかほめられるわけでもないけど、ふっとやりたいなあと思うからやってる。
それで、ああ夢ってそういうことねえ、とはじめて実感する。
僕は夢ってことばを手垢まみれにして使ってた。社会的評価っていう手垢。
自身がもっていたはずの「これやりたい!」って欲望を、社会に明け渡してしまっていた。
「あなたの夢は?」って質問をされると、ついつい何の職業につきたいかを探していた。
その時点でたぶんちがう。
職業は、すでに認知された、社会的なポジションであり技能。過不足なくそう。
職業を選ぼうとするときどこかの段階で、元々もっていた欲望をすでにある職業にはめようとしている気がする。
そしていつのまにやら、今とそしてかつての欲望に関心をむけることがなくなる。そして職業をまっとうし社会的評価を手にすることに関心がうつる。
既存の職業を全うすることが欲望とぴったり一致していればラッキー。でもそうじゃない場合はややこしい。
夢は夢のまま、やりたいことはやりたいことのままでいい。むしろそうでないと後々困る。社会に認めてもらえるように翻訳してはいけない。
夢は夢のままに、実践しつづけるうちに、社会が勝手に認めてしまう。ただそれだけ。
そんなことを、じんわりと気づくのに、何とも時間がかかってしまった。
開脚前屈が夢でもいいし、そうでなくてもいい。一個だけでもいいし、増えていってもいい。大きいも小さいもない。
夢が夢のままでいられて、実践しつづけられる。
そんな環境づくりを大切にする。