妻といることは飽きない
20210114
先日お世話になってる方から「24時間一緒にいるね」と言われた。僕と妻のことだ。
たしかに。と思った。
僕が個人事業主兼主夫になってから、ほぼほぼ全ての時間を、妻とともにしてる。娘と犬もそうではあるけど、保育園行ってたり、家空けてたりするから、妻ほどではない。
なんともありがたいことに、飽きない。全然飽きない。
何話しててもお互いの異なる興味が絶妙に噛み合っておもしろい。
仕事にしたって、アプローチも着想も違うから、感心と感謝ばかり。
ただどうやら昔の僕はそんなこと思ってなかったようで、「昔はあすかと仕事するのイヤって言ってましたよ。あすかトロイから。」と妻談。
そうか、そんなこと言ってたのかと、思い返してみる。
サラリーマンを辞める前から、ちょくちょく妻の仕事の手伝いはしてた。
でもどこか片手間にやってるのを自分でも感じていた。
だから、できるだけ最小限の労力で、とっとと終わらせたかったんだと思う。
あすかとの仕事を断ることもしたくなかったけど、そこにエネルギーを割けるほどの余裕はなかったんだろうなと推測する。
それで、できるだけ省エネで手早く終わらせたいと思っていた。
のだけど、妻のペースもあるから、その願いは叶わない。
それでやりたくないと思いながらやっていたような気がする。
状況が変わった今では、ただただ一緒にいるのは心地いい。
わかった気になりがちなこの身を、違った場所に連れて行ってくれるキッカケであり、なにより日々の不安定を楽しんで乗りこなしていくパートナーでもある。
まあ随分な変わりようなわけだけど、そんなみずからを想うに、結局身の回りの環境次第なのかもなあと漠然と思う。
それは、まわりのせいにするとかではなくって、置かれてる状況の最適解として今の身体のあり方があるんだろうなってことをいわんとしてる。
自分がどんな状態でも、どんな嫌な奴でも、今いる場所とそれまでの体験の連関、繊細な均衡関係のもとで取りえたベストが、今の姿としてあるのではないか。
そう受け容れてやっと、すこしずつすこしずつ、均衡の一部を改編していける。そんな気がする。
最適解としての身体を受け容れることと、そのうえで均衡の、環境の再編を行うこと。
それらはきっと、noratist(のらてぃすと)としての技術の根幹に関わるのだろうという予感がしている。
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