親の葛藤
20220530
土曜日、小川村小学校の運動会があった。娘のういは保育園の年長さんだけど、来春から入学予定ということで出場種目があり、一緒に参加した。
運動会の1週間ほど前から、彼女は嫌がっていた。同級生のお友だちと連れ立って遊ぶこと、運動会の最後に予定されていた小川音頭を踊ることは楽しみみたいだった。でも種目への参加は嫌がっていた。参加しない、ただ見てると言っていた。
小学校に行くこと自体は拒んでいないから、まあ当日一緒気行ってみて様子をみてみようと思っていた。
当日。お友だちが彼女が着いたのをみつけて集まってくる。意気揚々とグラウンドを駆けていく。
この感じなら大丈夫かなあと、彼女に参加できそうかと聴いてみる。
首を横に振る。嫌なものは嫌らしい。
はてさてどうしたものかと思いながら、出場時間になる。
彼女は僕に抱きつきながら嫌だと泣く。困る。参加しないのもためらわれて、彼女を抱っこしたまま、保育園児の列に僕も参加する。
彼女の心配をしつつ、オッサンが1人参加してることに気恥ずかしさも覚えつつ、種目は滞りなく終わる。
お友だちのママが「ういちゃん大丈夫?」と声をかけてくれる。「恥ずかしいみたいで。」と説明する。
急に、自分の昔を思い出す。
小学生1年生の、最初の授業参観。
観に来てくれたママにいいとこ見せようと、まわりの子たちがハイハイハイ!と手を挙げる中、僕は恥ずかしくて手を挙げられなかった。
その帰り道の車内、「恥ずかしいじゃない!」と母親に怒鳴られた。
そんなことが急に思い出された。
目の前の親が何に関心があるのか。
意識しようと無意識だろうと、子どもは敏感に察知する。子どものためのふりをした、親自身のための言動がこの世界には腐るほどあって、そういったものに触れるたびに、怒りと悲しみと心配を抱く。そしてそれはすべて自分自身に向かう。
彼女を抱っこして参加して、気恥ずかしさを感じてしまったこと。彼女のためにと思いつつ、僕自身が期待してしまっている彼女の像と彼女の実際とのギャップに勝手に動揺してしまっていた。
そしてその動揺した姿を他の親に晒してしまうことに抵抗があった。
ういはういなりのベストを尽くした結果、抱っこで参加をした。そもそも参加せず見てるだけがよかった彼女からしてみれば抱っこでの参加だってベストどころか、強制された暴力だっかのかもしれない(まあしかし、この辺は、親が子にかけるべき負荷としては悩ましい)。
「恥ずかしいみたいで。」とまわりに説明してたことでさえ、娘にとっては暴力だったかもしれない。そんなこと彼女は語っていない。
嫌だ!だけでは、僕が、まわりに示しがつかないから、話が通るであろうロジックで覆い隠しただけだった。
小学校の子どもたちが大玉を押すのをみながら、そんなことを考えていた。
僕の葛藤を横目に彼女はご機嫌。お目当ての小川音頭を踊り終えて「あ〜たのしかった!」とあっけらかんと言う。
親ってのは何をするんだろうかと、謎が深まる。不思議とうれしくなる。