地下と地上
20210304
このところ、ホームページをつくっていた。瞑想稽古場mybのモノ。
途中、ホームページの、言葉を考える段になった。のだけど、出てこなかった。
iPhoneのメモでフリック入力していても、うんともすんともならない。
冴えねえなあと自分に凹んで、畳の上をゴロゴロする。
ファンヒーターから出てくる熱風で足の裏をあたためて、熱くなりすぎたら設定温度をさげて、物足りなくなって温度をあげる。それを繰り返す。
まあうだうだしててもしょうがないと、テーブルに移動。白紙のプリント用紙とペンを前に、椅子に座る。
手で考えるなら縦書きにしようと気分を一新する。
書の時間のつもりで、文字を書くこと、それ自体を楽しむ方向に変える。
なんとなく使うだろうなあって単語を、気持ちいいままに書いてみる。
そうこうしてたら、一気に来た。
なんか書けてる。さっきまでダメダメだったのが、いい具合に粗く、出てくる。
ホームページを進めたいと考えていた我に返って、ホッとする。
そして、驚く。
何が違ってこうなるのか。
言葉が出てこなかったのは、iPhoneのメモ機能で、横書き、フリック入力、姿勢を特に気にしていない時。
紙とペンで、縦書き、手書き文字、背筋のばして座ってる時に、スッと言葉が出てきた。
違いを簡単に切り分けて並べるとこういうことだけど、それらが重要だったってことではないような気がする。
手を動かしている間は、ホームページを進めたい、そう考える我に返ったりしなかった。
もしくは、その我が全面に出てきたり、支配的じゃなかった。
言葉をハントするには、そんな我、意識のあり方が重要なのでは、と閃いた気がしてうれしくなる。
ホームページを進めたいっていう目的意識は持ちながら、それでいて別の意識が主体的に働いているとでもいうか。
僕はある決まったゴールにだけむかって走るっていうのは貧しい印象を持っていた。
持ってはいたはずなのだけど、今回のホームページづくりは、それをやっちゃってたのかもと振り返って思う。
言葉が出てこなかったのは、ホームページを進める、完成させるってことに焦点があいすぎてしまっていたのかもしれない。
道中の出逢いを味わうだけの余裕がなかったとも言える。
あるゴールにむかって走りはじめる。走ってる間に道草をして、そっちに夢中になる。そうこうしてる間に、いつのまにかゴールにいる。ましくは、当初想定していたゴールとは違うゴールにたどりついたりする。
目的はあくまで地下を、ひっそり流れ続けていればいい。
地上では、花を愛で、原っぱを駆け、木陰で休む。
一見ゴールにたどりつくには遠回りに思えてしまうこと。
目的っていう明瞭な意識とは別にいくつかの意識が並走してること。
それが結果的にはゴールへの最短距離であったり、ゴールをそのつどつくることにつながるのかもしれません。