一つの身体の中に養殖と天然が同居する
20200922
娘と妻と釣りに行った。
娘と妻が楽しんでいること、そしてその様子をみて楽しむ僕を思いながら、ふと、“養殖”としての体験と、“天然”としての体験があるかもなとピンとくる感じがある。
釣り堀に、そこで釣られるために育てられた、魚を釣りに行く。
釣り堀で釣る。釣れた/釣れないで一喜一憂する。それは“養殖”の、人工の体験。
一方で、生物学的に、人間とは断固ちがう存在として魚をみつめると、釣り堀での魚釣りも自然の体験といえたりする。
“養殖”は人工も自然も両方ふくまれてるととらえられるし、自然とよばれやすいものも所詮は“養殖”の産物ともとらえられる。
人工/自然、いずれにしてもそこには、確固たる目的とそれに対応した行為がある。というかそれしかない。
“養殖”としての体験。
今回の釣りで、僕が魚を釣ること(=“養殖”の体験)にしか興味がなければ、娘や妻が楽しんでいることはどうでもいい。釣れるか/釣れないかのみに関心がいく。
“養殖”の体験と対をなす、“天然”の体験があるんだと思う。対というか、“養殖”の体験を“天然”の体験に上書きしていく。
釣り堀は釣りをしにいくところ。目的だけでいえば魚を釣れば終わり。魚が釣れなければつまらない。“養殖”の体験にだけフォーカスがあっていると、そうなる。
でも実際はちがう。
釣りまでの道中、釣れない間、釣れたとき、食べるまで、それらの一連の体験が思い出さられる。
釣るという目的と行為(=“養殖”の体験)の中に、その目的とは関係ないことが、間髪いれずにやってくる。
それらをキャッチして受け容れていく。
他の人の姿勢。空や雲。車のナンバー。表情。娘や妻が楽しんでいること。
“天然”の体験。ゴールまでの最短距離とは別の、道草の豊かさ。
最短距離を最速でめざす、“養殖”を志す者は間違いをゆるさない。より速く、より正確に。
そもそも間違いがあって正解がある、という認識にたつ。
“天然”はゴールを一応めざしながらも、そのゴールはなにかがやってくるのを待つキッカケにすぎない。右往左往する。
ポジティブに、ああでもないこうでもない情報群を、受け容れる。
豊富であることを切り捨てない保留力。もしくは、一度結んだ像をそのたびに壊していく大胆さ。
“天然”の体験を志す者は、我慢を要請しない。嫉妬もしない。
だれかのミスや成功と呼ばれそうなものも、すべて我が身になにかをもたらしてくれるギフトとしてとらえられる。
市場、資本主義は、“養殖”の体験を要請する場面がおおい。速いこと、正しいことに比重が置かれる。“天然”の体験の中でうまれる、遠回り、失敗は捨てさられる。
現代で生きることは、“養殖”(=人工/自然)と“天然”がせめぎあうことになる。
一個の身体の中に“養殖”と“天然”をいかに同居させるか。
それを大切にしたい。
娘と妻との釣りが楽しかったことから、なんでこんなことになったのかはわからない。
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