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野良

20211206

みずからの肩書きを、のらてぃすと/noratistとしてから、1年ほどたつ。

勝手につくった肩書きゆえ、誰とも共有できるはずもなく、特別名乗りもしない。

それでも自分の中では歴然と、のらてぃすと/noratistとしての実践、実装が日々の念頭にある。

nor-artist、アーティストではないこと。そしてなにより、nora-art-ist、【“野良”を技術として持つ】存在を志向して、のらてぃすとと名づけた。

この【“野良”を技術として持つ】を、自分の中では3つに分類している。
(1)“野良”でいること/(2)“野良”といること/(3)“野良”にいること。

(1)“野良”でいることは、在り方に関わることを想定している。

人は放っておいても“社会”を内包してる。本能としてそうある。群れでないと生きられない生物としての宿命。

それゆえに手段と目的が入れ替わって、群れることが目的になる。群れるためにできた群れに、承認されるために生きてしまう。

その度が過ぎないようにする。“社会”に翻弄されることなく、存分に己の生を、そして死を、全うする。

そのために、この身一つの全体性の中に(=身体に)、“野良”を養うかが大切なのだろうとあたりをつけている。

“社会”の中に生きながら、“社会”とは決して相容れない秩序を、みずからの内に保持し、つくりあげていく。

そんな内なる創造性を(1)“野良”でいることと呼んでいる。

そんな(1)の在り方をベースとしながら、他者と共存、協働していく方法が、(2)“野良”といることにあたる。

どこの誰にだって、自覚のあるなしに関わらず、“野良”は潜んでいるはずで。

“社会”に生きた他者ではなく、“野良”としての他者にむきあいよりそう。“社会”での人間関係とは別の、“野良”の人間関係としてのコミュニケーションについての技術が、(2)“野良”といることである。

そして最後の、(3)“野良”にいることは、野良仕事の野良を広くさす。土であり、その場の環境形成についての技術。

住環境や、土水緑地形地層といった自然もさることながら、もっと人臭いところ、金銭的な面でのやりとりの仕方なんかも想定している。

清濁問わず、あくまで存分に生きるために必要な環境づくり全般である。

好きなことを好きでいられるためのベースづくりという意味では、(2)“野良”といること/(3)“野良”にいることの両者は、関係しあっていて、単純に切り分けることはできない。

この(1)/(2)/(3)を技術としてこの身に宿したいと願いながら、日々を過ごしている。

日頃の実践でいえば、瞑想や書くことは(1)と、妻と娘とむきあうことは(2)と、小川村に移住して住まいや集落にむきあうことは(3)と、連関しているのだと思う。

先日、熊倉敬聡の瞑想にまつわる本を読んだ。そこに書かれていたガタリのエコロジーの三位一体に近いものを感じる。

あくまで、これまでの自分ができていなくて反転したいことを、自分本位に実践している日々である。

こうして先人の影がみえて、うれしい。まだ先は、運がよければ、死ぬまで長い。

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