ポイ捨てできる愛を
20200908
娘が「音楽教室行かない!」と言い出した。
話を聴くと「楽しいけど行かないの!」ということらしい。
なんのこっちゃはわからないが行かなくなった。
娘の移り変わりは、学びというか、次のステップにつながるチャンスを必ず連れてきてる。そんな実績がある。
妻や僕などの大人側は予定通りやりたかったりするから、最初はえー!ってなるけど、後々思えば、ういの行動が正しかった、幸だらけや!と驚くことが多々ある。
「楽しいけど行かない!」、この選択はどういうことなんだろうなあと想像をふくらませる。
同じセリフを、保育園に対しても、よく言う。
「(保育園は)楽しい。けど、(家にいて妻や僕と遊んでる方がもっと楽しいから、)行かない!」ということなのではと、妻と僕とでは話している。
そうだとしたらすごくありがたいことだと思いながら、ずっとマンツーマンはしんどいので、…家の居心地悪くするか…、なんてアホなことも考える。
どういう理由であれ、何かをやらないって選択したその体には、おびただしい量の未来が充填される。
その未来だけを祝福していたい。
たとえ自分(の想定する利)の元から離れてしまっても、祝福できる。
カラッと乾いた風が、お互いを吹き抜けること。
そういう愛の託し方。ポイ捨てできる愛。
そんな態度を娘にはプレゼントしつづけていたいなあと思う。
娘が楽器をはじめる。
その未来に照準をあわせて、妻と僕も、新しく楽器をはじめようとしていた。妻は尺八、僕は三味線。
娘が一旦音楽から離れる未来に残ったのは、ただの夫婦の和楽器デュオだった。
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