等身大
20210322
自分で、たいそう、不思議になる。
なぜこうも日々、筆をもって書いているのか。
書をはじめて1年と3ヶ月。
どういう方向に進むんだろうかとわからないことは多々ある。
そんな不可解な中でも、筆をとる時間は楽しい。
書をみて感動してはじめたわけではない。なんとなく、書だなと思って、書道教室を探した。
言葉を扱いながら、身体も一緒に。
もしくは身体が先行しながら言葉が出てくるように。
そんな感覚で、書をはじめ、今に至る。
先日、良寛の晩年の書を観る機会があった。
良寛の書とむきあって、強く思ったのは、書きたいなってことだった。
字のすがたかたちに、特別な好意は抱かなかった。今の僕には抱けなかっただけかもしれない。
ゆっくり、ゆったりと書いてるんだろうなあと思った。
自分で書く、臨書ではない書も、できうる限り、ひたすらゆっくり書くことを意識してみる。今はそんなターンにしている。
その感覚をつづけていくと、こんな具合になるのかなとボンヤリ思ってみていた。
ステキだなあと思ったのは、筆の運びだった。
ある点・線から次の点・線への移動が、自在だなあと感心してしまった。
一枚の屏風に3行ほど、文字が縦書きにならぶ。その配置に、堅苦しい計算がないようにみえる。
あるいは極めて自然な計算、無意識下での計算はあるのかもしれないけれど、それが先走ってない。そんな感じをうけた。
そして、書かれている内容が他愛もないことも、いいなあと思った。というか安心した。
現代語訳には、ゴロゴロと、下手するとダラシないとも取れる日常が書かれている。
誰かとこんな話をした、こんな夢をみた、こうして遊んだみたいなこと。
そこにたしかに教訓めいたことが読めないこともないけれど、良寛だからありがたがられるのだろうという具合。
あくまで、そこにあるのは、貧しい暮らしぶりのおじいちゃんの等身大なのかなと、僕にはみえた。
そして、そんなことを書いて、人が感動するっていう事実に勇気をもらう。
良寛は亡くなる前まで住んだ村で、子どもたちと鞠で一緒に遊んだのだそうだ。
僕も負けじと、より積極的に、幼稚園児たちとボールを蹴ろうと想いを新たにするのでした。